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戦争孤児の橋本さん新城で講演

満州からの引き揚げの記憶を語る橋本さん=富岡ふるさと公民館で
満州からの引き揚げの記憶を語る橋本さん=富岡ふるさと公民館で

 太平洋戦争中に新城市中宇利から旧満州(現中国東北部)へ家族とともに渡り、敗戦後の引き揚げのさなか、一家が全滅して孤児になった橋本克巳さん(86)=名古屋市西区=による講演が30日、新城市富岡ふるさと公民館であった。八名郷土史会、八名地区共育推進委員会の共催。
 満州への国策移民「満蒙(まんもう)開拓団」で、県内からは唯一「東三河郷開拓団」が海を渡った。奥三河を中心とする146戸549人で敗戦後、古里に戻れたのは半分以下の252人。尾張部には広大な農地と、工業地帯があったため志願者はいなかった。
 橋本さんの家は貧しく、火災にも遭ったことから1942年に満州へ。直前に、砥鹿神社で撮った写真が残っている。
 中国人から接収した土地を耕し、馬や牛、豚などの家畜も飼えるようになり、ゆとりのある生活が送れるようになった。ところが、戦局の悪化で開拓団の男性は根こそぎ動員され、橋本さんの父も召集された。
 食糧事情も悪化し、やがてソ連が参戦。8月15日の敗戦後、「匪賊(ひぞく)」と呼んだ武装集団が略奪に来るようになった。橋本さんも頭に銃を突きつけられたこともある。200㌔離れたチチハルへの脱出に成功したが、食料事情も衛生環境も悪く、46年に橋本さんを除く家族はチフスなどにかかって全滅する。死の間際の弟と妹の顔についたウジをつまんでとってやった記憶が今もよみがえる。当時10歳で、同郷の開拓団員に連れられて復員した。遺品は父母の髪の毛と爪だけだったという。
 橋本さんは「ロシアウクライナ戦争で、ウクライナ人避難民の映像を見て共感疲労を感じている。私にとって戦後は終わっておらず、これからも続く」と述べた。そして「人類は21世紀中にすべての戦争をやめなければならない」と訴えた。
【山田一晶】

 太平洋戦争中に新城市中宇利から旧満州(現中国東北部)へ家族とともに渡り、敗戦後の引き揚げのさなか、一家が全滅して孤児になった橋本克巳さん(86)=名古屋市西区=による講演が30日、新城市富岡ふるさと公民館であった。八名郷土史会、八名地区共育推進委員会の共催。
 満州への国策移民「満蒙(まんもう)開拓団」で、県内からは唯一「東三河郷開拓団」が海を渡った。奥三河を中心とする146戸549人で敗戦後、古里に戻れたのは半分以下の252人。尾張部には広大な農地と、工業地帯があったため志願者はいなかった。
 橋本さんの家は貧しく、火災にも遭ったことから1942年に満州へ。直前に、砥鹿神社で撮った写真が残っている。
 中国人から接収した土地を耕し、馬や牛、豚などの家畜も飼えるようになり、ゆとりのある生活が送れるようになった。ところが、戦局の悪化で開拓団の男性は根こそぎ動員され、橋本さんの父も召集された。
 食糧事情も悪化し、やがてソ連が参戦。8月15日の敗戦後、「匪賊(ひぞく)」と呼んだ武装集団が略奪に来るようになった。橋本さんも頭に銃を突きつけられたこともある。200㌔離れたチチハルへの脱出に成功したが、食料事情も衛生環境も悪く、46年に橋本さんを除く家族はチフスなどにかかって全滅する。死の間際の弟と妹の顔についたウジをつまんでとってやった記憶が今もよみがえる。当時10歳で、同郷の開拓団員に連れられて復員した。遺品は父母の髪の毛と爪だけだったという。
 橋本さんは「ロシアウクライナ戦争で、ウクライナ人避難民の映像を見て共感疲労を感じている。私にとって戦後は終わっておらず、これからも続く」と述べた。そして「人類は21世紀中にすべての戦争をやめなければならない」と訴えた。
【山田一晶】

満州からの引き揚げの記憶を語る橋本さん=富岡ふるさと公民館で
満州からの引き揚げの記憶を語る橋本さん=富岡ふるさと公民館で

カテゴリー:社会・経済

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