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「絶対に戦争はいかん」

所属隊「嵐歩兵第120連隊第4中隊」の名簿に記された戦友の名を見つめる彦坂さん。県内に住む同じ部隊の戦友はもう一人もいない=田原市内の自宅で
所属隊「嵐歩兵第120連隊第4中隊」の名簿に記された戦友の名を見つめる彦坂さん。県内に住む同じ部隊の戦友はもう一人もいない=田原市内の自宅で

田原の彦坂さん癒えぬ戦地で負った傷

 きょうは終戦の日。大正生まれの彦坂幸夫さん(95)=田原市南神戸町=は、今も戦地で負った傷が残る。「絶対に戦争はいかん」。体験者の1人として強く平和を願う。

 兵隊検査を経て、第二乙補充兵として1942(昭和17)年4月に召集。21歳の時、福井鯖江連隊で約2カ月、軍隊教育として銃剣術など基本を叩き込まれた。
 「ビンタはしょっちゅうもらっとった。粗相をすればビンタ。わしゃ、3日目だった。自分じゃなく班の1人が粗相をすればビンタだった。結局はそれが共同精神のためで、戦地で生き残るため」。
 広島から貨物船に乗り、約10日かけて中国の安慶に上陸。「どこへ行くかわしらには分からんかったけど、兵隊に行くのが誇りだった」と、不安はなかった。
 安慶でも現地教育があり、擲弾筒(てきだんとう)を撃つ練習を教えられた。「ここでもビンタは付きもの。まともな顔をしている者は誰もいなかった」。
 野宿しながら丸2日間歩いて大隊本部へ合流。第一線の警備任務に就いた。ある日の明け方、敵軍の奇襲で包囲され、迫撃砲により自陣の水がめが割れて水がなくなった。「おしっこを飲んで凌いだ」ことを思い出す。
 1943(昭和18)年1月の大別山大作戦は4日目に交戦に突入。「殴られたように、痺れた」。彦坂さんの右上腕を迫撃砲の破片が直撃し負傷、出血多量で意識を失った。すぐに衛生兵が手当てしてくれたが、傷は今も生々しく残る。右腕の傷だけでなく、左腕には何かの破片が今も残っている。
 同年10月の常徳作戦では所属隊が玉砕。彦坂さんは負傷し、最前線を離れたていたため「運が良かった」と思い出す。
 戦地では、敵との白兵戦が常に隣り合う第一線の歩兵隊。「歩きながら寝ることもあった。作戦ばかりで、辛いとかの考える余裕はなかった。みんな国のためと思っていた」と振り返る。
 終戦を迎えても「いつ帰れるのかと思ったぐらい。命令通りに動いた」と敗戦に特別な感情は起こらなかったという。


未来の平和に思うこと

憲法九条改憲の動きがある。彦坂さんは「戦争の経験がない人には分からんのじゃないかな。戦争の苦しみが。戦争をすれば必ず人が死ぬ。とにかく世界中が武器を作ったり持ったりするのがいかん。武器がなけりゃ戦争もできない。兵器を無くすことを世界で考えなければならん。だけど、そんなことは夢だろうね。ただ、日本だけは絶対に戦争をしちゃならん」。
 「人を助けるということが何より大切だと思うよ。困った人がいたら助け合い、支えあう。そんな生き方がいい」と未来の平和と幸せに願いを込める。
 復員後は農業と養鶏で生計を立て、日本傷痍軍人会理事、愛知東三河傷痍軍人会の会長を歴任した。「今はこうして元気でいられるのが一番」と、平和のありがたみを噛みしめる。
(千葉敬也)

田原の彦坂さん癒えぬ戦地で負った傷

 きょうは終戦の日。大正生まれの彦坂幸夫さん(95)=田原市南神戸町=は、今も戦地で負った傷が残る。「絶対に戦争はいかん」。体験者の1人として強く平和を願う。

 兵隊検査を経て、第二乙補充兵として1942(昭和17)年4月に召集。21歳の時、福井鯖江連隊で約2カ月、軍隊教育として銃剣術など基本を叩き込まれた。
 「ビンタはしょっちゅうもらっとった。粗相をすればビンタ。わしゃ、3日目だった。自分じゃなく班の1人が粗相をすればビンタだった。結局はそれが共同精神のためで、戦地で生き残るため」。
 広島から貨物船に乗り、約10日かけて中国の安慶に上陸。「どこへ行くかわしらには分からんかったけど、兵隊に行くのが誇りだった」と、不安はなかった。
 安慶でも現地教育があり、擲弾筒(てきだんとう)を撃つ練習を教えられた。「ここでもビンタは付きもの。まともな顔をしている者は誰もいなかった」。
 野宿しながら丸2日間歩いて大隊本部へ合流。第一線の警備任務に就いた。ある日の明け方、敵軍の奇襲で包囲され、迫撃砲により自陣の水がめが割れて水がなくなった。「おしっこを飲んで凌いだ」ことを思い出す。
 1943(昭和18)年1月の大別山大作戦は4日目に交戦に突入。「殴られたように、痺れた」。彦坂さんの右上腕を迫撃砲の破片が直撃し負傷、出血多量で意識を失った。すぐに衛生兵が手当てしてくれたが、傷は今も生々しく残る。右腕の傷だけでなく、左腕には何かの破片が今も残っている。
 同年10月の常徳作戦では所属隊が玉砕。彦坂さんは負傷し、最前線を離れたていたため「運が良かった」と思い出す。
 戦地では、敵との白兵戦が常に隣り合う第一線の歩兵隊。「歩きながら寝ることもあった。作戦ばかりで、辛いとかの考える余裕はなかった。みんな国のためと思っていた」と振り返る。
 終戦を迎えても「いつ帰れるのかと思ったぐらい。命令通りに動いた」と敗戦に特別な感情は起こらなかったという。


未来の平和に思うこと

憲法九条改憲の動きがある。彦坂さんは「戦争の経験がない人には分からんのじゃないかな。戦争の苦しみが。戦争をすれば必ず人が死ぬ。とにかく世界中が武器を作ったり持ったりするのがいかん。武器がなけりゃ戦争もできない。兵器を無くすことを世界で考えなければならん。だけど、そんなことは夢だろうね。ただ、日本だけは絶対に戦争をしちゃならん」。
 「人を助けるということが何より大切だと思うよ。困った人がいたら助け合い、支えあう。そんな生き方がいい」と未来の平和と幸せに願いを込める。
 復員後は農業と養鶏で生計を立て、日本傷痍軍人会理事、愛知東三河傷痍軍人会の会長を歴任した。「今はこうして元気でいられるのが一番」と、平和のありがたみを噛みしめる。
(千葉敬也)

所属隊「嵐歩兵第120連隊第4中隊」の名簿に記された戦友の名を見つめる彦坂さん。県内に住む同じ部隊の戦友はもう一人もいない=田原市内の自宅で
所属隊「嵐歩兵第120連隊第4中隊」の名簿に記された戦友の名を見つめる彦坂さん。県内に住む同じ部隊の戦友はもう一人もいない=田原市内の自宅で

カテゴリー:社会・経済

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