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一九三七年 飯田線開通 愛されて80年②

古川さんが描いた「豊川海軍工廠被爆絵図」。後方で貨物列車が爆発している
古川さんが描いた「豊川海軍工廠被爆絵図」。後方で貨物列車が爆発している
現在は日本車輌製造の専用線として残る旧西豊川支線=豊川市西豊町で
現在は日本車輌製造の専用線として残る旧西豊川支線=豊川市西豊町で

悲劇の歴史を持つ「廠内線」

 15日は72回目の終戦記念日。飯田線には、戦争の影響を受けた支線があった。豊川駅から西へ延びる約2・4㌔の「西豊川支線」だ。
 1942(昭和17)年5月、豊川鉄道は豊川海軍工廠(しょう)への人員・資材の輸送を目的に同支線を開業。終点は現在の桜木公園付近にあった西豊川駅だったが、工員輸送の便宜を図るため、さらに1㌔先の工廠北東門乗降場まで乗り入れていた。翌年に豊川鉄道が日本政府に買収されたことで、この支線も国有化された。
 工廠の従事者からは「廠内線」の愛称で親しまれた。工廠出身者や遺族でなる八七会代表の大石辰己さん(88)は、多くの同僚がこの路線で通っていたのを覚えている。「6両編成の電車に、豊橋や新城から通う15、16歳の若者たちがぎゅうぎゅう詰めになって乗っていた」。
 西豊川支線は工員を乗せる朝と夕方以外は資材の運搬に使っていたが、1945年8月7日の午前10時13分に米軍の空襲が始まった時も、ちょうど貨物列車に資材を積み込んだ直後だった。
 弾薬や機銃が乗った貨物も容赦なく爆撃され、火の海と化した。これを見ていた大石さんは「自分たちが作った弾薬がパンパンとはじけ飛び、これに当たって命を落とす人もいた。本当に怖かった」と振り返る。この光景を、古川訓夫さんは「豊川海軍工廠被爆絵図」に描いている。
 終戦後、工廠跡地には国鉄豊川分工場などが建設された。支線の利用客は1日100人前後まで減り、1956年に廃止。その後、日本車輌製造の専用引き込み線となって現在に至る。
(由本裕貴)

悲劇の歴史を持つ「廠内線」

 15日は72回目の終戦記念日。飯田線には、戦争の影響を受けた支線があった。豊川駅から西へ延びる約2・4㌔の「西豊川支線」だ。
 1942(昭和17)年5月、豊川鉄道は豊川海軍工廠(しょう)への人員・資材の輸送を目的に同支線を開業。終点は現在の桜木公園付近にあった西豊川駅だったが、工員輸送の便宜を図るため、さらに1㌔先の工廠北東門乗降場まで乗り入れていた。翌年に豊川鉄道が日本政府に買収されたことで、この支線も国有化された。
 工廠の従事者からは「廠内線」の愛称で親しまれた。工廠出身者や遺族でなる八七会代表の大石辰己さん(88)は、多くの同僚がこの路線で通っていたのを覚えている。「6両編成の電車に、豊橋や新城から通う15、16歳の若者たちがぎゅうぎゅう詰めになって乗っていた」。
 西豊川支線は工員を乗せる朝と夕方以外は資材の運搬に使っていたが、1945年8月7日の午前10時13分に米軍の空襲が始まった時も、ちょうど貨物列車に資材を積み込んだ直後だった。
 弾薬や機銃が乗った貨物も容赦なく爆撃され、火の海と化した。これを見ていた大石さんは「自分たちが作った弾薬がパンパンとはじけ飛び、これに当たって命を落とす人もいた。本当に怖かった」と振り返る。この光景を、古川訓夫さんは「豊川海軍工廠被爆絵図」に描いている。
 終戦後、工廠跡地には国鉄豊川分工場などが建設された。支線の利用客は1日100人前後まで減り、1956年に廃止。その後、日本車輌製造の専用引き込み線となって現在に至る。
(由本裕貴)

古川さんが描いた「豊川海軍工廠被爆絵図」。後方で貨物列車が爆発している
古川さんが描いた「豊川海軍工廠被爆絵図」。後方で貨物列車が爆発している
現在は日本車輌製造の専用線として残る旧西豊川支線=豊川市西豊町で
現在は日本車輌製造の専用線として残る旧西豊川支線=豊川市西豊町で

カテゴリー:社会・経済 / 特集

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