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松原用水・牟呂用水の歴史を振り返る(中)

カテゴリー:コラム

<牟呂用水開削(かいさく)130年を迎えて>

平成29年3月8日には牟呂用水開さく130年の大きな節目を迎え、10月10には世界灌漑(かんがい)施設遺産に登録されるという慶事が重なった。
ここで参考までに、牟呂用水について簡単に説明すると、この用水は、渥美郡牟呂町(現在の豊橋市牟呂町)の西に広がる豊川河口の干潟を干拓してできた神野新田のための用水として開削されたものである。頭首工は新城市一鍬田にあり、現在の頭首工は豊川右岸の地を灌漑する松原用水と共用となっていて、牟呂松原頭首工と呼ばれている。水路の長さは共用の牟呂松原幹線水路が5.271km、牟呂用水路については、16.565kmで豊橋市内を縦断している。また、牟呂用水は、神野新田だけでなく新城市八名井、一宮町金沢、賀茂町などの農地を灌漑し、現在は工業用水、水道水としても使われている。牟呂用水の前身は明治20年、加茂村、金沢村、八名井村の三村による賀茂用水の開削であったが、同年9の月台風による暴風雨のため、壊れるという憂き目にあっている。その後、当時の勝間田稔愛知県知事の勧誘に応じて豊川河口の干潟の干拓事業に乗り出した長州の毛利祥久が、その新田のために破壊していた賀茂用水を拡張、延長して新しい用水路を開削し、明治21年6月に完工、牟呂用水が誕生することになる。しかしながら、これも明治24年の濃尾大地震による堤防の破壊、明治25年9月の台風による暴風雨などの災害に見舞われ、毛利新田は壊滅状態となり、牟呂用水も一鍬田の堰堤や水路、樋管などが破壊されてしまう。そのため、毛利祥久は新田開発を断念し、明治26年にその権利を名古屋の実業家神野金之助に譲渡。神野は新田の築堤工事を服部長七に依頼。服部は伝統的な左官の技術「たたき」を応用した人造石工法によって堅固な堤防を築き、明治26年澪留を成功させて築堤を完工させている。
興味深いことは、この牟呂用水もそもそもの発端は、金沢、賀茂、八名井の三村の有志28名の委員から始まった賀茂用水事業であることである。そして現在も牟呂用水神社には、28名を含む先覚者の霊が祭られている。以下である。
(1) 八名井の部、杉下平四郎、加藤長次郎、大塚庄平、宮城豊次郎、富安利平、富安末次郎、井上民蔵、加藤鶴三郎、加藤喜傳次。
(2) 金沢村の部、米山忠次郎、富安仙次郎、白井藤次郎、山本新吾、野澤弥三郎、小川覚左衛門、加藤善作、今沢儀三郎、富安三郎、城所豊蔵、城所 興、佐久間権次郎、佐久間金咲。
(3) 賀茂村の部、竹尾彦九郎、林 嘉伊次、山本林蔵、加藤兼三郎、松井源右衛門、林七郎衛、小柳津新松、林清作、中野豊作、林富次、林繁太郎、竹尾準、松井喜平次。
(4) 名古屋の部、神野金之助。

このような先覚者たちの偉業もそれぞれの村々のいわゆる「民政自冶」とも言うべき動きから始まったことは興味深いところである。
(取締役統括本部長 山本正樹)

<牟呂用水開削(かいさく)130年を迎えて>

平成29年3月8日には牟呂用水開さく130年の大きな節目を迎え、10月10には世界灌漑(かんがい)施設遺産に登録されるという慶事が重なった。
ここで参考までに、牟呂用水について簡単に説明すると、この用水は、渥美郡牟呂町(現在の豊橋市牟呂町)の西に広がる豊川河口の干潟を干拓してできた神野新田のための用水として開削されたものである。頭首工は新城市一鍬田にあり、現在の頭首工は豊川右岸の地を灌漑する松原用水と共用となっていて、牟呂松原頭首工と呼ばれている。水路の長さは共用の牟呂松原幹線水路が5.271km、牟呂用水路については、16.565kmで豊橋市内を縦断している。また、牟呂用水は、神野新田だけでなく新城市八名井、一宮町金沢、賀茂町などの農地を灌漑し、現在は工業用水、水道水としても使われている。牟呂用水の前身は明治20年、加茂村、金沢村、八名井村の三村による賀茂用水の開削であったが、同年9の月台風による暴風雨のため、壊れるという憂き目にあっている。その後、当時の勝間田稔愛知県知事の勧誘に応じて豊川河口の干潟の干拓事業に乗り出した長州の毛利祥久が、その新田のために破壊していた賀茂用水を拡張、延長して新しい用水路を開削し、明治21年6月に完工、牟呂用水が誕生することになる。しかしながら、これも明治24年の濃尾大地震による堤防の破壊、明治25年9月の台風による暴風雨などの災害に見舞われ、毛利新田は壊滅状態となり、牟呂用水も一鍬田の堰堤や水路、樋管などが破壊されてしまう。そのため、毛利祥久は新田開発を断念し、明治26年にその権利を名古屋の実業家神野金之助に譲渡。神野は新田の築堤工事を服部長七に依頼。服部は伝統的な左官の技術「たたき」を応用した人造石工法によって堅固な堤防を築き、明治26年澪留を成功させて築堤を完工させている。
興味深いことは、この牟呂用水もそもそもの発端は、金沢、賀茂、八名井の三村の有志28名の委員から始まった賀茂用水事業であることである。そして現在も牟呂用水神社には、28名を含む先覚者の霊が祭られている。以下である。
(1) 八名井の部、杉下平四郎、加藤長次郎、大塚庄平、宮城豊次郎、富安利平、富安末次郎、井上民蔵、加藤鶴三郎、加藤喜傳次。
(2) 金沢村の部、米山忠次郎、富安仙次郎、白井藤次郎、山本新吾、野澤弥三郎、小川覚左衛門、加藤善作、今沢儀三郎、富安三郎、城所豊蔵、城所 興、佐久間権次郎、佐久間金咲。
(3) 賀茂村の部、竹尾彦九郎、林 嘉伊次、山本林蔵、加藤兼三郎、松井源右衛門、林七郎衛、小柳津新松、林清作、中野豊作、林富次、林繁太郎、竹尾準、松井喜平次。
(4) 名古屋の部、神野金之助。

このような先覚者たちの偉業もそれぞれの村々のいわゆる「民政自冶」とも言うべき動きから始まったことは興味深いところである。
(取締役統括本部長 山本正樹)

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