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豊橋市中央図書館で戦争体験語る座談会

空襲などを体験し、当時を振り返りながら話す川端さん㊨と山田さん㊥神藤さん=豊橋市中央図書館で
空襲などを体験し、当時を振り返りながら話す川端さん㊨と山田さん㊥神藤さん=豊橋市中央図書館で

 豊橋空襲や東京大空襲を経験した人や戦没者遺族らによる座談会「語ろう わたしたち・おれたちの戦争」が29日、豊橋市中央図書館で開かれた。経験者は終戦から73年を迎えた今も、当時の悲惨な記憶は鮮明。集まった人たちを前に「戦争は絶対にいけない」「語り継いでいかなければならい」と語った。
 同図書館が館内で「戦争と家族・仕事」をテーマに開催している「平和を求めて とよはし」展の関連行事。1945(昭和20)年6月19日夜から20日未明にかけた豊橋空襲当日、豊橋駅に止まった列車に乗務していた元国鉄機関助士・川端新二さん(89)=春日井市在住=と、同年の東京大空襲を経験した山田博一さん(86)=豊橋市在住、伯父2人が戦死した神藤常晴さん(71)=同=が話した。
 川端さんは、豊橋空襲当時、東海道線の大阪発東京行きの夜行列車に乗務。豊橋駅に停車した際、駅の助役が走って来て「発車時間まであと2分あるが、間もなく空襲が始まる。今すぐ発車してくれ」と大声で叫び、列車は発車した。渥美鉄道(現・渥美線)のガード下で振り返ると、豊橋駅方面は火の海になっていたという。乗客約1000人の命は救われた。
 「今も豊橋というと空襲を思い出す。豊橋のあと、岡崎、豊川なども空襲され、豊橋が中小都市への空襲のとっかかりだったのではないか。終戦がもう3カ月早ければよかった。その機会があったと思う」と悔しさをにじませた。
 山田さんは、豊橋へ疎開する前に東京で空襲に遭った。45年4月の空襲。遊び場だった東京・谷中の台地にある墓地へ逃げ込んだ。「火の海が見え、その明かりで墓石の字が読めるほど。墓地の桜が満開だった」。空襲後、学校へ顔を出さない友人宅のある現在の東京スカイツリー付近へ向かったが「焼け野原だった」と振り返った。
 終戦の1年ほど前から学童疎開が始まり、別れた友人と手紙をやりとりした。「人生で一番手紙を書いた。終戦後はみんな消息が分からないまま。送られてきたはがきが唯一の幼なじみ」と話し、「桜やスカイツリーを見ると空襲を思い出す。あの下に友だちがいるんだ。戦争は絶対にいけない。風化させてもいけない」と訴えた。
 神藤さんは、軍隊に入っていた母親の兄2人を戦争で失った。20歳前後だった。豊橋空襲で失った自宅を建てる際、焼失したとされていた1人の兄の形見、一対のこま犬の置物が見つかった。
 「『俺たちのことを忘れてくれるなよ』と出てきたのではないか。これからも(こま犬を)大事に守っていこうと思う」と神藤さん。「戦後生まれだが、経験を私たちが語り継いでいくのが願い」と話した。
 また、市立向山小学校6年生時代に地元の戦争遺跡などを見ながら豊橋空襲を調べた市立中部中学校1年の石川琳子さんと松本さくらさんが、学戦学習の成果を報告した。
(中村晋也)

 豊橋空襲や東京大空襲を経験した人や戦没者遺族らによる座談会「語ろう わたしたち・おれたちの戦争」が29日、豊橋市中央図書館で開かれた。経験者は終戦から73年を迎えた今も、当時の悲惨な記憶は鮮明。集まった人たちを前に「戦争は絶対にいけない」「語り継いでいかなければならい」と語った。
 同図書館が館内で「戦争と家族・仕事」をテーマに開催している「平和を求めて とよはし」展の関連行事。1945(昭和20)年6月19日夜から20日未明にかけた豊橋空襲当日、豊橋駅に止まった列車に乗務していた元国鉄機関助士・川端新二さん(89)=春日井市在住=と、同年の東京大空襲を経験した山田博一さん(86)=豊橋市在住、伯父2人が戦死した神藤常晴さん(71)=同=が話した。
 川端さんは、豊橋空襲当時、東海道線の大阪発東京行きの夜行列車に乗務。豊橋駅に停車した際、駅の助役が走って来て「発車時間まであと2分あるが、間もなく空襲が始まる。今すぐ発車してくれ」と大声で叫び、列車は発車した。渥美鉄道(現・渥美線)のガード下で振り返ると、豊橋駅方面は火の海になっていたという。乗客約1000人の命は救われた。
 「今も豊橋というと空襲を思い出す。豊橋のあと、岡崎、豊川なども空襲され、豊橋が中小都市への空襲のとっかかりだったのではないか。終戦がもう3カ月早ければよかった。その機会があったと思う」と悔しさをにじませた。
 山田さんは、豊橋へ疎開する前に東京で空襲に遭った。45年4月の空襲。遊び場だった東京・谷中の台地にある墓地へ逃げ込んだ。「火の海が見え、その明かりで墓石の字が読めるほど。墓地の桜が満開だった」。空襲後、学校へ顔を出さない友人宅のある現在の東京スカイツリー付近へ向かったが「焼け野原だった」と振り返った。
 終戦の1年ほど前から学童疎開が始まり、別れた友人と手紙をやりとりした。「人生で一番手紙を書いた。終戦後はみんな消息が分からないまま。送られてきたはがきが唯一の幼なじみ」と話し、「桜やスカイツリーを見ると空襲を思い出す。あの下に友だちがいるんだ。戦争は絶対にいけない。風化させてもいけない」と訴えた。
 神藤さんは、軍隊に入っていた母親の兄2人を戦争で失った。20歳前後だった。豊橋空襲で失った自宅を建てる際、焼失したとされていた1人の兄の形見、一対のこま犬の置物が見つかった。
 「『俺たちのことを忘れてくれるなよ』と出てきたのではないか。これからも(こま犬を)大事に守っていこうと思う」と神藤さん。「戦後生まれだが、経験を私たちが語り継いでいくのが願い」と話した。
 また、市立向山小学校6年生時代に地元の戦争遺跡などを見ながら豊橋空襲を調べた市立中部中学校1年の石川琳子さんと松本さくらさんが、学戦学習の成果を報告した。
(中村晋也)

空襲などを体験し、当時を振り返りながら話す川端さん㊨と山田さん㊥神藤さん=豊橋市中央図書館で
空襲などを体験し、当時を振り返りながら話す川端さん㊨と山田さん㊥神藤さん=豊橋市中央図書館で

カテゴリー:社会・経済

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