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豊川海軍工廠平和公園で戦争体験談を聴く

工廠に従事していた当時の体験を振り返る大石さん=豊川市平和交流館で
工廠に従事していた当時の体験を振り返る大石さん=豊川市平和交流館で

 豊川市は23日、豊川海軍工廠(しょう)平和公園(穂ノ原3)にある平和交流館で、工廠の体験談を聴く会を初開催した。市民50人を前に、工員の生存者でなる八七会会長の大石辰己さん(89)が当時の生活ぶりや空襲の恐ろしさを語った。
 旧稲武町出身の大石さんは当時15歳だった1944(昭和19)年、学校側の命令で工員の養成所に入所。当初は学校の教員の夢を持っていたが「上司の命令は天皇陛下の命令と思え、と言われていた。もうあきらめていた」と明かした。
 現在の豊川工業高校付近にあった養成所や、配属された器材部鋳造工場、機銃部工場での生活を「罰直が怖くて、起床時間に飛び起きれるように床の中で着替えていた」「当時の機械には安全装置はなく、事故で指や腕をなくてしまう人が何人もいた」などと紹介。大石さん自身も手を負傷し、上司が間違えて逆の手を介抱したが「上司には何事も逆らえなかったので、何も言えなかった」と振り返った。
 翌年になると日本の本土が攻撃を受けるようになった。大石さんも帰省中、現在の名電赤坂駅付近で乗っていた電車が米軍機の機銃掃射を受け、窓から逃げ出したことも明かした。
 そして8月7日の大空襲。千両町の分工場で働いていた大石さんは急いで工廠に駆け付けたが「仲間を助けるつもりだったのに、自分が逃げ回っていた」。翌日、崩れた防空壕(ごう)に埋まった遺体の救出作業にも従事した。
 3年前の戦後70年を機に、体験を語る意思を固めた大石さん。この日も名古屋市から車で駆け付けた。「仲間にはあんな恐ろしいことは思い出したくないと言う人もいるが、後世に伝えることは大事なこと。この一角に公園ができて、ようやく平和が来たんだなと実感できた」とも話した。
(由本裕貴)

 豊川市は23日、豊川海軍工廠(しょう)平和公園(穂ノ原3)にある平和交流館で、工廠の体験談を聴く会を初開催した。市民50人を前に、工員の生存者でなる八七会会長の大石辰己さん(89)が当時の生活ぶりや空襲の恐ろしさを語った。
 旧稲武町出身の大石さんは当時15歳だった1944(昭和19)年、学校側の命令で工員の養成所に入所。当初は学校の教員の夢を持っていたが「上司の命令は天皇陛下の命令と思え、と言われていた。もうあきらめていた」と明かした。
 現在の豊川工業高校付近にあった養成所や、配属された器材部鋳造工場、機銃部工場での生活を「罰直が怖くて、起床時間に飛び起きれるように床の中で着替えていた」「当時の機械には安全装置はなく、事故で指や腕をなくてしまう人が何人もいた」などと紹介。大石さん自身も手を負傷し、上司が間違えて逆の手を介抱したが「上司には何事も逆らえなかったので、何も言えなかった」と振り返った。
 翌年になると日本の本土が攻撃を受けるようになった。大石さんも帰省中、現在の名電赤坂駅付近で乗っていた電車が米軍機の機銃掃射を受け、窓から逃げ出したことも明かした。
 そして8月7日の大空襲。千両町の分工場で働いていた大石さんは急いで工廠に駆け付けたが「仲間を助けるつもりだったのに、自分が逃げ回っていた」。翌日、崩れた防空壕(ごう)に埋まった遺体の救出作業にも従事した。
 3年前の戦後70年を機に、体験を語る意思を固めた大石さん。この日も名古屋市から車で駆け付けた。「仲間にはあんな恐ろしいことは思い出したくないと言う人もいるが、後世に伝えることは大事なこと。この一角に公園ができて、ようやく平和が来たんだなと実感できた」とも話した。
(由本裕貴)

工廠に従事していた当時の体験を振り返る大石さん=豊川市平和交流館で
工廠に従事していた当時の体験を振り返る大石さん=豊川市平和交流館で

カテゴリー:社会・経済

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