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そこに刻まれた轍 ほのくに幻影物語

カテゴリー:特集

明治に存在した宝飯中学校の校舎(豊川市桜ヶ丘ミュージアム提供)
明治に存在した宝飯中学校の校舎(豊川市桜ヶ丘ミュージアム提供)
宝飯中学校があった大社神社東側。現在は畳店や民家が立ち並ぶ=国府町流霞で
宝飯中学校があった大社神社東側。現在は畳店や民家が立ち並ぶ=国府町流霞で

③宝飯中学校

 かつて豊川市国府町に、三河地方で最初の中学校があった。明治に存在した宝飯中学校はわずか5年半で廃校となった“幻の学び舎”だが、近代的な中等教育をこの地方で初めて行い、福沢諭吉が来校した歴史もある。

 「三河最初の中学校」(山田東作・武田三夫共著)によると、宝飯中学校は明治14(1881)年、当時の宝飯郡国府村に設立。明治19年の中学校令で地方税の支弁・補助に関わる学校が1県1校に限られ、翌年廃校となったが、佐賀中学、浜松中学と並ぶ全国でも3校しかない公立中学として重要な役割を果たした。
 明治2年、三河県が国府に築いた「修道館」が前身。もともと国府は徳川幕府の重臣が領主だったが、官軍に敗れて政府に没収された。当時豊橋には三河吉田藩の時習館があったことから、国府の地が選ばれたと推測できる。
 明治16年、現在の大社神社東側に校舎が新築された。それまでは国府小学校と極楽寺本堂を仮校舎に授業が行われた。当初の定員50人に対し倍近くの生徒が集まり、宝飯郡104カ村の住民らの出資もあって新校舎の建築が実現した。
 入学資格は初等小学科卒業生で、修業年限は予科1年、本科3年。生徒数は初年度が92人、翌年が83人だった。初代校長には慶應義塾出身の渋谷保が就任。「宝飯中学校日誌」には、明治19年3月16日に慶應の創設者で、一万円札でおなじみの福沢諭吉が来校した記録も残っている。
 使用された教科書は100冊を超え、平尾小学校には英語、万国史、地文学の3冊が所蔵されていた。これら洋書は生徒に貸し出され、汚れと破損から多くの生徒が手に取ったことが分かる。
(由本裕貴)

③宝飯中学校

 かつて豊川市国府町に、三河地方で最初の中学校があった。明治に存在した宝飯中学校はわずか5年半で廃校となった“幻の学び舎”だが、近代的な中等教育をこの地方で初めて行い、福沢諭吉が来校した歴史もある。

 「三河最初の中学校」(山田東作・武田三夫共著)によると、宝飯中学校は明治14(1881)年、当時の宝飯郡国府村に設立。明治19年の中学校令で地方税の支弁・補助に関わる学校が1県1校に限られ、翌年廃校となったが、佐賀中学、浜松中学と並ぶ全国でも3校しかない公立中学として重要な役割を果たした。
 明治2年、三河県が国府に築いた「修道館」が前身。もともと国府は徳川幕府の重臣が領主だったが、官軍に敗れて政府に没収された。当時豊橋には三河吉田藩の時習館があったことから、国府の地が選ばれたと推測できる。
 明治16年、現在の大社神社東側に校舎が新築された。それまでは国府小学校と極楽寺本堂を仮校舎に授業が行われた。当初の定員50人に対し倍近くの生徒が集まり、宝飯郡104カ村の住民らの出資もあって新校舎の建築が実現した。
 入学資格は初等小学科卒業生で、修業年限は予科1年、本科3年。生徒数は初年度が92人、翌年が83人だった。初代校長には慶應義塾出身の渋谷保が就任。「宝飯中学校日誌」には、明治19年3月16日に慶應の創設者で、一万円札でおなじみの福沢諭吉が来校した記録も残っている。
 使用された教科書は100冊を超え、平尾小学校には英語、万国史、地文学の3冊が所蔵されていた。これら洋書は生徒に貸し出され、汚れと破損から多くの生徒が手に取ったことが分かる。
(由本裕貴)

明治に存在した宝飯中学校の校舎(豊川市桜ヶ丘ミュージアム提供)
明治に存在した宝飯中学校の校舎(豊川市桜ヶ丘ミュージアム提供)
宝飯中学校があった大社神社東側。現在は畳店や民家が立ち並ぶ=国府町流霞で
宝飯中学校があった大社神社東側。現在は畳店や民家が立ち並ぶ=国府町流霞で

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