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閉校の新城と新城東激突に思う

夏の愛知大会初勝利を伝える新聞と大西さん
夏の愛知大会初勝利を伝える新聞と大西さん
新城東の初代野球部の3年生と。前列右が大西さん(1972年、提供)
新城東の初代野球部の3年生と。前列右が大西さん(1972年、提供)
新城東と新城の合同練習後の記念撮影(同)
新城東と新城の合同練習後の記念撮影(同)

 新型コロナウイルス禍で夏の甲子園が中止となったことによる代替大会「夏季県高校野球大会」(県高野連など主催)は7月4日に開幕する。20日の抽選の結果、来春から新城有教館に統合され、今年度で閉校となる新城と新城東が初戦で激突する。1972年の新城東野球部創設時の初代監督、大西裕さん(81)は、最後の両校ナインに「学校の最後を締めくくる大会。ベストを尽くしてほしい」とエールを送った。
 岐阜大卒。1961年に県立本郷高に着任し、教員人生のスタートを切った。野球部担当を任された。65年、新城高に着任し、68年に監督に就任した。マンモス校化解消のため、新城東高の分離新設が決まっていた。
 分離直前の忘れられない思い出がある。72年春のリーグ戦。前年秋の大会で新城は1次リーグ戦を突破したものの、2次では全敗し、春に向けて再起を目指していた。春も1次は突破、2次リーグで1勝し、次の時習館戦に勝てば2次突破の可能性があった。ところが3月29日に予定されていた試合は雨続きで延期され、ようやく4月2日に対戦が決まった。
 試合開始直前、バックネット裏の本部席に呼ばれ、通告された。「新城東の生徒になった部員は試合に出られません」。続けて「あなたも駄目です」。3月までなら新城高校だったが、新年度を迎えていたため、同じチームとしての出場は認められないというのだ。抗議は「先例があります」と断られた。
 部員に伝えると素直に受け入れた。新城に残るレギュラー3人とベンチ外の6人でチームを急造し、試合に臨んだ。大西さんは観客席最上段に陣取り、大きな身振りでサインを送って試合を見守った。3対7で敗れ、県大会出場はかなわなかった。「今なら携帯電話で確認することもできたのでしょうが」と大西さんは残念がる。
 試合後、規定の塁審を務めてから、初めて赴任先の新城東校舎に行った。狭かった新城グラウンドとは違い、野球専用練習場があった。ただ、急いで造成したためか水はけが悪く、雨が降ると1週間も水が引かなかった。部員と新城東の1期生たちが一緒に石を拾い集め、6月頃にようやくまともな練習ができるようになった。
 ただ、専用練習場といってもバックネットはなく、コーチャーズボックスのすぐ後ろが土手になっているような環境だった。木製バットも十分ではなく、合材の「竹バット」すら使っていたという。それでも新城との練習試合なども重ね、初めての夏の大会を迎えた。新生学校ながら旧新城のレギュラーもいる布陣だった。
 初戦は大会初日の7月21日。相手は松平。継投が奏功し、8対1で七回コールド勝ちした。「今までの苦労が報われたと思った」と大西さん。次戦は一宮球場で因縁の時習館と対戦し、延長十一回の末、2対4で敗れた。ベンチで泣いていた3年生たちが、ロッカールームでは朗らかに笑っていたのが印象に残るという。
 その後、94年3月まで新城東で野球部を率い、同年4月から岡崎東高の教頭を務め、99年に退職した。
 大西さんは、新城と新城東の対戦を、地元ケーブルテレビの解説者として見ることになる。両校の初戦対決は偶然だが、解説の仕事は関係者の配慮らしい。
 コロナのためにシートノックもなく、円陣も禁止の大会だ。観客席も保護者ら一部しか入れない。だが大西さんは「できれば延長戦まで、少しでも長く、野球を続けさせてやりたい」と話す。「自分たちのプレーには両校の歴史を閉じる役割があると思ってほしい」と両ナインに呼びかけた。
 両校対決は大会2日目の7月5日、豊橋市民球場での第1試合だ。
【山田一晶】

 新型コロナウイルス禍で夏の甲子園が中止となったことによる代替大会「夏季県高校野球大会」(県高野連など主催)は7月4日に開幕する。20日の抽選の結果、来春から新城有教館に統合され、今年度で閉校となる新城と新城東が初戦で激突する。1972年の新城東野球部創設時の初代監督、大西裕さん(81)は、最後の両校ナインに「学校の最後を締めくくる大会。ベストを尽くしてほしい」とエールを送った。
 岐阜大卒。1961年に県立本郷高に着任し、教員人生のスタートを切った。野球部担当を任された。65年、新城高に着任し、68年に監督に就任した。マンモス校化解消のため、新城東高の分離新設が決まっていた。
 分離直前の忘れられない思い出がある。72年春のリーグ戦。前年秋の大会で新城は1次リーグ戦を突破したものの、2次では全敗し、春に向けて再起を目指していた。春も1次は突破、2次リーグで1勝し、次の時習館戦に勝てば2次突破の可能性があった。ところが3月29日に予定されていた試合は雨続きで延期され、ようやく4月2日に対戦が決まった。
 試合開始直前、バックネット裏の本部席に呼ばれ、通告された。「新城東の生徒になった部員は試合に出られません」。続けて「あなたも駄目です」。3月までなら新城高校だったが、新年度を迎えていたため、同じチームとしての出場は認められないというのだ。抗議は「先例があります」と断られた。
 部員に伝えると素直に受け入れた。新城に残るレギュラー3人とベンチ外の6人でチームを急造し、試合に臨んだ。大西さんは観客席最上段に陣取り、大きな身振りでサインを送って試合を見守った。3対7で敗れ、県大会出場はかなわなかった。「今なら携帯電話で確認することもできたのでしょうが」と大西さんは残念がる。
 試合後、規定の塁審を務めてから、初めて赴任先の新城東校舎に行った。狭かった新城グラウンドとは違い、野球専用練習場があった。ただ、急いで造成したためか水はけが悪く、雨が降ると1週間も水が引かなかった。部員と新城東の1期生たちが一緒に石を拾い集め、6月頃にようやくまともな練習ができるようになった。
 ただ、専用練習場といってもバックネットはなく、コーチャーズボックスのすぐ後ろが土手になっているような環境だった。木製バットも十分ではなく、合材の「竹バット」すら使っていたという。それでも新城との練習試合なども重ね、初めての夏の大会を迎えた。新生学校ながら旧新城のレギュラーもいる布陣だった。
 初戦は大会初日の7月21日。相手は松平。継投が奏功し、8対1で七回コールド勝ちした。「今までの苦労が報われたと思った」と大西さん。次戦は一宮球場で因縁の時習館と対戦し、延長十一回の末、2対4で敗れた。ベンチで泣いていた3年生たちが、ロッカールームでは朗らかに笑っていたのが印象に残るという。
 その後、94年3月まで新城東で野球部を率い、同年4月から岡崎東高の教頭を務め、99年に退職した。
 大西さんは、新城と新城東の対戦を、地元ケーブルテレビの解説者として見ることになる。両校の初戦対決は偶然だが、解説の仕事は関係者の配慮らしい。
 コロナのためにシートノックもなく、円陣も禁止の大会だ。観客席も保護者ら一部しか入れない。だが大西さんは「できれば延長戦まで、少しでも長く、野球を続けさせてやりたい」と話す。「自分たちのプレーには両校の歴史を閉じる役割があると思ってほしい」と両ナインに呼びかけた。
 両校対決は大会2日目の7月5日、豊橋市民球場での第1試合だ。
【山田一晶】

夏の愛知大会初勝利を伝える新聞と大西さん
夏の愛知大会初勝利を伝える新聞と大西さん
新城東の初代野球部の3年生と。前列右が大西さん(1972年、提供)
新城東の初代野球部の3年生と。前列右が大西さん(1972年、提供)
新城東と新城の合同練習後の記念撮影(同)
新城東と新城の合同練習後の記念撮影(同)

カテゴリー:社会・経済 / スポーツ

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