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金子の両親眠る豊橋・潮音寺

内山家の墓=いずれも潮音寺で
内山家の墓=いずれも潮音寺で
寺に残る古関の色紙。金子が亡くなったことを内山家の両親に報告に来たとみられる
寺に残る古関の色紙。金子が亡くなったことを内山家の両親に報告に来たとみられる

NHK連続テレビ小説「エール」のヒロインのモデルは、豊橋出身の古関(旧姓内山)金子(1912~80年)だ。先日、豊橋市中央図書館の調査で、その父、内山安蔵の出身地が現在の新城市であること、亡くなった日付が24(大正13)年10月3日だったことが判明した。安蔵と妻みつは、豊橋市小池町の潮音寺に眠る。寺を訪ねた。
 墓石には「内山家累代之墓」と刻まれている。建てたのは長男で金子の兄の勝英。「昭和四年十月三日」建立とあった。
 寺の藤井哲成住職(66)によると、旧満州に渡り、敗戦後に帰国した勝英もここに眠っている。帰国後の足取りは、これまでの図書館の調査でも分かっていない。68(昭和43)年1月に亡くなったようだ。「当時のことなので、先代が出向いて、自宅で弔いをしたのではないか」と藤井住職は言う。ドラマ主人公のモデルとなった作曲家、古関裕而(09~89年)の親族から藤井住職が伝え聞いたところによると、妻子がいたようだが、はっきりしない。
 古関は、金子が亡くなった3年後の83年、潮音寺を訪れている。金子の姉妹の誰かを伴っていたという。藤井住職も遠くからその姿を見た。
 人気テレビ番組「オールスター家族対抗歌合戦」(フジテレビ系、72~84年)に、司会の萩本欽一さんとともに審査員として出演していたので、藤井住職もすぐそれと分かった。
 古関は、記念にと色紙にサインをして寺に贈った。古関が手掛けた名曲「君の名は」の出だしの楽譜とともに、名前と落款がある。なぜ昭和20年代の曲を、色紙に書いたのかは分からない。図書館で金子の実像を調査している岩瀬彰利主幹学芸員は「売れた歌だから、万人受けすると思ったのでは」と推測する。色紙の裏には「昭和五十八年六月二十六日 東京より」と小さな字で書かれていた。
 77年11月、古関夫妻は、古関が園歌を作った曙幼稚園の歌碑に立ち寄り、その時の写真が残っている。潮音寺を訪ねた可能性もある。両親の年忌法要もあったろう。ただ、藤井住職は金子が来た記憶がない。「そもそも、金子さんのことなんて誰も知らなかった」と言う。
 長男だった安蔵が新城市の本家を三男に譲り、職業軍人として豊橋に出てきた。退役し、軍都だった豊橋で軍を相手にする馬具商をしていたことも知られている。潮音寺の檀家になったのも安蔵の代からだ。その内山分家は勝英の代で途絶え、豊橋における内山家を知る人はいなくなってしまった。岩瀬学芸員らの調査で、その歴史の中に埋もれていた半生に少しずつ光が当たりつつある。
 藤井住職は墓石の前で言った。「ドラマはあくまでもドラマで脚色も多い。本当の金子さんの歴史を知りたいですね」
 岩瀬学芸員による安蔵と内山家の調査結果は、8日から、豊橋中央図書館1階で展示される。資料は安蔵直筆の手紙など約10点。古関の色紙も並ぶ予定だ。【山田一晶】

NHK連続テレビ小説「エール」のヒロインのモデルは、豊橋出身の古関(旧姓内山)金子(1912~80年)だ。先日、豊橋市中央図書館の調査で、その父、内山安蔵の出身地が現在の新城市であること、亡くなった日付が24(大正13)年10月3日だったことが判明した。安蔵と妻みつは、豊橋市小池町の潮音寺に眠る。寺を訪ねた。
 墓石には「内山家累代之墓」と刻まれている。建てたのは長男で金子の兄の勝英。「昭和四年十月三日」建立とあった。
 寺の藤井哲成住職(66)によると、旧満州に渡り、敗戦後に帰国した勝英もここに眠っている。帰国後の足取りは、これまでの図書館の調査でも分かっていない。68(昭和43)年1月に亡くなったようだ。「当時のことなので、先代が出向いて、自宅で弔いをしたのではないか」と藤井住職は言う。ドラマ主人公のモデルとなった作曲家、古関裕而(09~89年)の親族から藤井住職が伝え聞いたところによると、妻子がいたようだが、はっきりしない。
 古関は、金子が亡くなった3年後の83年、潮音寺を訪れている。金子の姉妹の誰かを伴っていたという。藤井住職も遠くからその姿を見た。
 人気テレビ番組「オールスター家族対抗歌合戦」(フジテレビ系、72~84年)に、司会の萩本欽一さんとともに審査員として出演していたので、藤井住職もすぐそれと分かった。
 古関は、記念にと色紙にサインをして寺に贈った。古関が手掛けた名曲「君の名は」の出だしの楽譜とともに、名前と落款がある。なぜ昭和20年代の曲を、色紙に書いたのかは分からない。図書館で金子の実像を調査している岩瀬彰利主幹学芸員は「売れた歌だから、万人受けすると思ったのでは」と推測する。色紙の裏には「昭和五十八年六月二十六日 東京より」と小さな字で書かれていた。
 77年11月、古関夫妻は、古関が園歌を作った曙幼稚園の歌碑に立ち寄り、その時の写真が残っている。潮音寺を訪ねた可能性もある。両親の年忌法要もあったろう。ただ、藤井住職は金子が来た記憶がない。「そもそも、金子さんのことなんて誰も知らなかった」と言う。
 長男だった安蔵が新城市の本家を三男に譲り、職業軍人として豊橋に出てきた。退役し、軍都だった豊橋で軍を相手にする馬具商をしていたことも知られている。潮音寺の檀家になったのも安蔵の代からだ。その内山分家は勝英の代で途絶え、豊橋における内山家を知る人はいなくなってしまった。岩瀬学芸員らの調査で、その歴史の中に埋もれていた半生に少しずつ光が当たりつつある。
 藤井住職は墓石の前で言った。「ドラマはあくまでもドラマで脚色も多い。本当の金子さんの歴史を知りたいですね」
 岩瀬学芸員による安蔵と内山家の調査結果は、8日から、豊橋中央図書館1階で展示される。資料は安蔵直筆の手紙など約10点。古関の色紙も並ぶ予定だ。【山田一晶】

内山家の墓=いずれも潮音寺で
内山家の墓=いずれも潮音寺で
寺に残る古関の色紙。金子が亡くなったことを内山家の両親に報告に来たとみられる
寺に残る古関の色紙。金子が亡くなったことを内山家の両親に報告に来たとみられる

カテゴリー:社会・経済

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