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連載そこに刻まれた轍 ほの国幻影物語

カテゴリー:特集

西豊川駅の跡地に現存する旧西豊川支線のレール=豊川市美幸町で
西豊川駅の跡地に現存する旧西豊川支線のレール=豊川市美幸町で
歴史を感じさせる木造の支柱=同
歴史を感じさせる木造の支柱=同
廃止当時の西豊川駅の駅舎(郷土出版社「飯田線の60年 三遠南信・夢の架け橋」より)
廃止当時の西豊川駅の駅舎(郷土出版社「飯田線の60年 三遠南信・夢の架け橋」より)

⑭西豊川駅

 まもなく戦後75年。豊川市には戦争の歴史と共に存在した幻の駅があった。桜木小学校の北側、美幸町にあった飯田線・西豊川支線の「西豊川駅」だ。企業専用の引き込み線となって現存する線路には、当時の面影が残る。

 「東洋一の軍需工場」と呼ばれた豊川海軍工廠(しょう)の完成に伴い、1942(昭和17)年5月12日、工廠に人員・資材を輸送するため豊川駅から延びる約2・4㌔の西豊川支線が開業、同時に西豊川駅が建設された。
 駅は工廠の敷地から少し離れ、廠内へ延びる約2㌔の専用線が敷設された。一般客の利用は西豊川駅までだったが、工員ら関係者は専用線を使い、廠内の北東門乗降場まで乗り入れた。
 戦時下は「廠内線」と呼ばれた西豊川支線。元工員らでなる「八七会」元代表で、昨年90歳で他界した大石辰己さんも「6両編成の電車に、豊橋や新城から通う15、16歳の若者たちがぎゅうぎゅう詰めで乗っていた」と回想していた。
 日中は資材の運搬に使われ、1945(昭和20)年8月7日午前10時13分に米軍の空襲が始まった時も、ちょうど弾薬や機銃を積み込んだ直後だった。貨物車は標的となり、周辺は火の海と化して多くの死者が出た。
 工廠は閉鎖されたが、西豊川駅は終戦後もしばらく営業を続けた。しかし支線の利用客は1日100人前後までに減り、1956年9月15日で廃止された。
 支線は日本車輌製造の引き込み線となって現存しており、西豊川駅のあった場所は空き地となっている。付近には当時のままの木造の支柱が残されている。
【由本裕貴】

⑭西豊川駅

 まもなく戦後75年。豊川市には戦争の歴史と共に存在した幻の駅があった。桜木小学校の北側、美幸町にあった飯田線・西豊川支線の「西豊川駅」だ。企業専用の引き込み線となって現存する線路には、当時の面影が残る。

 「東洋一の軍需工場」と呼ばれた豊川海軍工廠(しょう)の完成に伴い、1942(昭和17)年5月12日、工廠に人員・資材を輸送するため豊川駅から延びる約2・4㌔の西豊川支線が開業、同時に西豊川駅が建設された。
 駅は工廠の敷地から少し離れ、廠内へ延びる約2㌔の専用線が敷設された。一般客の利用は西豊川駅までだったが、工員ら関係者は専用線を使い、廠内の北東門乗降場まで乗り入れた。
 戦時下は「廠内線」と呼ばれた西豊川支線。元工員らでなる「八七会」元代表で、昨年90歳で他界した大石辰己さんも「6両編成の電車に、豊橋や新城から通う15、16歳の若者たちがぎゅうぎゅう詰めで乗っていた」と回想していた。
 日中は資材の運搬に使われ、1945(昭和20)年8月7日午前10時13分に米軍の空襲が始まった時も、ちょうど弾薬や機銃を積み込んだ直後だった。貨物車は標的となり、周辺は火の海と化して多くの死者が出た。
 工廠は閉鎖されたが、西豊川駅は終戦後もしばらく営業を続けた。しかし支線の利用客は1日100人前後までに減り、1956年9月15日で廃止された。
 支線は日本車輌製造の引き込み線となって現存しており、西豊川駅のあった場所は空き地となっている。付近には当時のままの木造の支柱が残されている。
【由本裕貴】

西豊川駅の跡地に現存する旧西豊川支線のレール=豊川市美幸町で
西豊川駅の跡地に現存する旧西豊川支線のレール=豊川市美幸町で
歴史を感じさせる木造の支柱=同
歴史を感じさせる木造の支柱=同
廃止当時の西豊川駅の駅舎(郷土出版社「飯田線の60年 三遠南信・夢の架け橋」より)
廃止当時の西豊川駅の駅舎(郷土出版社「飯田線の60年 三遠南信・夢の架け橋」より)

カテゴリー:特集

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