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最高齢の豊橋市議経験者 伴さんが民主主義を説く

カテゴリー:特集

戦争体験を語りながら民主主義を説く伴さん=豊橋市伊古部町の自宅で
戦争体験を語りながら民主主義を説く伴さん=豊橋市伊古部町の自宅で

 現在、豊橋市議経験者として最高齢の伴哲夫さん(97)=伊古部町=が東愛知新聞のインタビューに応じた。応召の経験がある。元同僚市議らも聞いたことがないという戦時下の体験を通して政治哲学を語った。

 明治元年生まれの祖母から教育を受けた。「何ごとも原点から教える人でした」と語る。合理的で、学問に明るかった。算術、歴史と地理などを教わったという。
 尋常高等小学校を卒業後、農協の前身である産業組合の事務員に町役員の推薦で就職した。「社会勉強をしてこい」と言ったのは父だ。そして盧溝橋事件を発端に日中戦争が始まったのが1937(昭和12)年。父は「軍隊は平和を維持するためにある」と言っていたが、開戦の知らせに「あれだけ訓練していたから、本番をやってみたくなったのか」と茶化すように言ったのを覚えている。

 そして太平洋戦争が始まり、徴兵検査を受けたのが42年。乙種合格。足の関節炎のため、歩兵ではなく戦車隊を志望したが、43年4月に入営したのは航空教育隊だった。
 計器を専修するはずだったがそれも1カ月。毒ガス弾に対処する「ガス兵」としての訓練を受けたこともある。結果的に特技のない一般兵になった。
 戦局は悪化していた。教育隊は6カ月で教育を終えた。転属先は99%南方だ。伴さんもニューギニアに行くことになっていたが、結局は東京・調布飛行場の対空無線隊の配属と決まった。
 当時の思い出がある。上官が兵隊に対し「この戦争はどうなると思うか」と質問した。みな口々に「勝ちます」と答えたが、伴さんだけが「精神的には勝つが、物質的には負けます」と言ったので、殴られて口から血が出た。父から譲り受けた考えだったという。「上官は、何も言わずにいきなり殴りつけた」と振り返る。

 いよいよ東京も爆撃の対象となった。大規模なものは45年3月10日の東京大空襲を始めとして4回あった。投入されたB29は1回あたり420~430機の規模。このうちの2回に出動した。
 2回目は神田のニコライ堂の防火任務だった。隊からトラックに乗り、ニコライ堂から離れた安全な場所から十数人で歩いて現場に入った。すでに別の分隊の12~13人がそこにいたが、分隊長は見習士官。軍歴の長い上等兵の伴さんが指揮を執ることになった。
 2班に分け、1班は休憩ついでに「転進(撤退)路」の偵察に向かわせた。命令では「炎上したら地下室へ退避」とあったが、従ったら死ぬと分かっていたためだ。幸い、ニコライ堂は炎上を免れた。
 エピソードには敗北を達観したようなところがある。なぜか。伴さんは「祖母や父の教えが体に流れていたからではないか」と言う。

 そして終戦。通信隊にいたため、終戦の情報は早かった。ラジオで玉音放送を聞いた。B29がまいた伝単(ビラ)を読んでポツダム宣言の内容を知っていたため、すぐに意味が分かった。
 戦地から転属してきた数人の下士官が「アメリカが来たら男は殺される。植民地になる」と流言飛語をばらまき、隊全体が動揺していた。同じ班の勝俣上等兵がマイクを握って反論した。「アメリカは人を殺さない。資本主義は人からピンはねするのが基本だからだ。そして植民地もつくらない。軍政にはなるが5年ぐらいだろう」。言った通りになった。東大を出て召集されたが「アカだ」といじめられていた人物だった。
 連合国の東京裁判で戦争責任を問われた7人が戦犯として死刑になった。靖国神社にまつられた。「靖国は戦死者が行くところだ。戦犯は戦死者ではない」と今も思っている。

 間もなく復員した。豊橋も空襲があったことを知っていたが、東京空襲の400機以上に対して80機規模と聞いて「大したことはない」と考えていた。駅に降り立ち、辺り一面が焼け野原になっていて驚いたという。
 ビルマ戦線でマラリアにかかり、命からがら戻った戦友の話も聞いている。「軍隊とはまったく、『運隊』だ」言う。「自分は運が良かった」との意味だ。あの時代への嫌悪がある。
 豊橋市議を1979年から99年まで5期20年務め、今は悠々自適の生活だ。「軍隊とは平和を維持するため…」という父の言葉をよく思い出す。昨今の政治風景について「悪く言えば民主主義を利用しているようなところがある。原点に立ち返り、民主主義、自由主義とは何かを考えなければならないのではないか」。名前をもじって「伴哲学」という高論を披露した。
【山田一晶】

 現在、豊橋市議経験者として最高齢の伴哲夫さん(97)=伊古部町=が東愛知新聞のインタビューに応じた。応召の経験がある。元同僚市議らも聞いたことがないという戦時下の体験を通して政治哲学を語った。

 明治元年生まれの祖母から教育を受けた。「何ごとも原点から教える人でした」と語る。合理的で、学問に明るかった。算術、歴史と地理などを教わったという。
 尋常高等小学校を卒業後、農協の前身である産業組合の事務員に町役員の推薦で就職した。「社会勉強をしてこい」と言ったのは父だ。そして盧溝橋事件を発端に日中戦争が始まったのが1937(昭和12)年。父は「軍隊は平和を維持するためにある」と言っていたが、開戦の知らせに「あれだけ訓練していたから、本番をやってみたくなったのか」と茶化すように言ったのを覚えている。

 そして太平洋戦争が始まり、徴兵検査を受けたのが42年。乙種合格。足の関節炎のため、歩兵ではなく戦車隊を志望したが、43年4月に入営したのは航空教育隊だった。
 計器を専修するはずだったがそれも1カ月。毒ガス弾に対処する「ガス兵」としての訓練を受けたこともある。結果的に特技のない一般兵になった。
 戦局は悪化していた。教育隊は6カ月で教育を終えた。転属先は99%南方だ。伴さんもニューギニアに行くことになっていたが、結局は東京・調布飛行場の対空無線隊の配属と決まった。
 当時の思い出がある。上官が兵隊に対し「この戦争はどうなると思うか」と質問した。みな口々に「勝ちます」と答えたが、伴さんだけが「精神的には勝つが、物質的には負けます」と言ったので、殴られて口から血が出た。父から譲り受けた考えだったという。「上官は、何も言わずにいきなり殴りつけた」と振り返る。

 いよいよ東京も爆撃の対象となった。大規模なものは45年3月10日の東京大空襲を始めとして4回あった。投入されたB29は1回あたり420~430機の規模。このうちの2回に出動した。
 2回目は神田のニコライ堂の防火任務だった。隊からトラックに乗り、ニコライ堂から離れた安全な場所から十数人で歩いて現場に入った。すでに別の分隊の12~13人がそこにいたが、分隊長は見習士官。軍歴の長い上等兵の伴さんが指揮を執ることになった。
 2班に分け、1班は休憩ついでに「転進(撤退)路」の偵察に向かわせた。命令では「炎上したら地下室へ退避」とあったが、従ったら死ぬと分かっていたためだ。幸い、ニコライ堂は炎上を免れた。
 エピソードには敗北を達観したようなところがある。なぜか。伴さんは「祖母や父の教えが体に流れていたからではないか」と言う。

 そして終戦。通信隊にいたため、終戦の情報は早かった。ラジオで玉音放送を聞いた。B29がまいた伝単(ビラ)を読んでポツダム宣言の内容を知っていたため、すぐに意味が分かった。
 戦地から転属してきた数人の下士官が「アメリカが来たら男は殺される。植民地になる」と流言飛語をばらまき、隊全体が動揺していた。同じ班の勝俣上等兵がマイクを握って反論した。「アメリカは人を殺さない。資本主義は人からピンはねするのが基本だからだ。そして植民地もつくらない。軍政にはなるが5年ぐらいだろう」。言った通りになった。東大を出て召集されたが「アカだ」といじめられていた人物だった。
 連合国の東京裁判で戦争責任を問われた7人が戦犯として死刑になった。靖国神社にまつられた。「靖国は戦死者が行くところだ。戦犯は戦死者ではない」と今も思っている。

 間もなく復員した。豊橋も空襲があったことを知っていたが、東京空襲の400機以上に対して80機規模と聞いて「大したことはない」と考えていた。駅に降り立ち、辺り一面が焼け野原になっていて驚いたという。
 ビルマ戦線でマラリアにかかり、命からがら戻った戦友の話も聞いている。「軍隊とはまったく、『運隊』だ」言う。「自分は運が良かった」との意味だ。あの時代への嫌悪がある。
 豊橋市議を1979年から99年まで5期20年務め、今は悠々自適の生活だ。「軍隊とは平和を維持するため…」という父の言葉をよく思い出す。昨今の政治風景について「悪く言えば民主主義を利用しているようなところがある。原点に立ち返り、民主主義、自由主義とは何かを考えなければならないのではないか」。名前をもじって「伴哲学」という高論を披露した。
【山田一晶】

戦争体験を語りながら民主主義を説く伴さん=豊橋市伊古部町の自宅で
戦争体験を語りながら民主主義を説く伴さん=豊橋市伊古部町の自宅で

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