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吉田城で鉄櫓に匹敵する高石垣発見

城内最大級と判明した本丸南多門の高石垣=吉田城跡で
城内最大級と判明した本丸南多門の高石垣=吉田城跡で
明治以降から3㍍下に埋もれた堀底=同
明治以降から3㍍下に埋もれた堀底=同

 豊橋市文化財センターは16日、吉田城跡「南多門」の発掘調査で、城内最大級の高石垣が見つかったと発表した。堀底からの高さは鉄櫓(くろがねやぐら)に匹敵。石材や加工技術から江戸時代初期とみられる。当時の城主だった松平忠利、またはそれ以前の池田輝政の時代が有力という。20日に一般公開する。
 本丸南多門付近の堀底調査により、築城時から3㍍近く埋もれていることが分かった。水のない空堀に築かれ、本来の高さは約12・6㍍で鉄櫓(12・7㍍)と同程度。東海地方でも名古屋城に次ぐ高さという。
 高石垣の東隣に「腰巻石垣」と呼ばれる高さ2・1㍍の石垣もあらわになった。堀底まで発見されたケースは全国初という。土塁を築く時の石材不足を補うものだが、吉田城は石垣として築いた可能性が高いという。
 使われた石材は花崗岩が中心で、大きなものは1・4㍍にもなる。
 日本城郭協会理事の加藤理文さんは「築城技術もそうだが、花崗岩の巨石を調達できる領地と財力を考えると、石高の高かった輝政(15万石)も有力だ」と説く。
 一方、石高こそ3万石と少ないが、築城の名手で名古屋城の石垣づくりにも関わった忠利が、幕府とのパイプを生かして近隣産地から調達した説も有力だという。
 加藤さんは「南多門の石垣が輝政の仕事だった場合、のちの姫路城築城へつながる技術の変遷をたどる新たな課題となるかも」と期待した。
 20日午前10時と午後1時半から本丸広場付近で調査成果を公開(少雨決行)。今年度の成果を巡り、全箇所のスタンプを集めると「桐文鬼瓦紋」入りスケッチブックが各回200人に贈られる。
【加藤広宣】

 豊橋市文化財センターは16日、吉田城跡「南多門」の発掘調査で、城内最大級の高石垣が見つかったと発表した。堀底からの高さは鉄櫓(くろがねやぐら)に匹敵。石材や加工技術から江戸時代初期とみられる。当時の城主だった松平忠利、またはそれ以前の池田輝政の時代が有力という。20日に一般公開する。
 本丸南多門付近の堀底調査により、築城時から3㍍近く埋もれていることが分かった。水のない空堀に築かれ、本来の高さは約12・6㍍で鉄櫓(12・7㍍)と同程度。東海地方でも名古屋城に次ぐ高さという。
 高石垣の東隣に「腰巻石垣」と呼ばれる高さ2・1㍍の石垣もあらわになった。堀底まで発見されたケースは全国初という。土塁を築く時の石材不足を補うものだが、吉田城は石垣として築いた可能性が高いという。
 使われた石材は花崗岩が中心で、大きなものは1・4㍍にもなる。
 日本城郭協会理事の加藤理文さんは「築城技術もそうだが、花崗岩の巨石を調達できる領地と財力を考えると、石高の高かった輝政(15万石)も有力だ」と説く。
 一方、石高こそ3万石と少ないが、築城の名手で名古屋城の石垣づくりにも関わった忠利が、幕府とのパイプを生かして近隣産地から調達した説も有力だという。
 加藤さんは「南多門の石垣が輝政の仕事だった場合、のちの姫路城築城へつながる技術の変遷をたどる新たな課題となるかも」と期待した。
 20日午前10時と午後1時半から本丸広場付近で調査成果を公開(少雨決行)。今年度の成果を巡り、全箇所のスタンプを集めると「桐文鬼瓦紋」入りスケッチブックが各回200人に贈られる。
【加藤広宣】

城内最大級と判明した本丸南多門の高石垣=吉田城跡で
城内最大級と判明した本丸南多門の高石垣=吉田城跡で
明治以降から3㍍下に埋もれた堀底=同
明治以降から3㍍下に埋もれた堀底=同

カテゴリー:社会・経済

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