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豊橋空襲を語りつぐ会総会で語り部の白井さんが悲惨な体験語る

豊橋空襲について話す白井さん㊨=豊橋市民センターで
豊橋空襲について話す白井さん㊨=豊橋市民センターで

 1945(昭和20)年6月の豊橋空襲で大けがを負った白井門治さん=豊橋市大手町=が16日、同市民センターで開かれた市民団体「豊橋空襲を語りつぐ会」の総会で「豊橋空襲・18歳の体験…子どもたちに語り継ぎたい」を演題に講演した。90歳になった今もかくしゃくとし、語り部として活動、今後も「戦争の怖さを伝えていきたい」と話した。
 豊橋空襲は45年6月19日深夜から20日未明にかけて米軍機が空爆、市中心部を焼き尽くし、624人が犠牲となった。
 「火は地面を這っていた」「頭の上に飛行機がブンブン飛んでいた」-。72年前、18歳だった白井さんが当時を振り返った。焼夷弾に吹き飛ばされたが、地面にたたきつけられて意識が戻ったという。
 すると「何かぬるぬるしていた。左足の指がない。神経がまひしていたのか、痛くないんですよ。歩けず、這いつくばって防空壕の中に逃げた」。空襲の惨状を生々しく語った。
 約2カ月後に終戦を迎えたが、市内の病院で入院生活。「1年半ぐらいは歩けず病院暮らし。杖をつかず、実際に歩けるようになるまで2年ぐらいかかったと思う」と話した。
 夏には「包帯をとると、うじ虫。神経を吸われるとものすごい痛み。虫を落とし、新しい包帯に替えてくれた。全身にやけどを負った人は、体がうじ虫で真っ白だった」と述懐した。
 足に後遺症が残り、坂道は体を横向きにして上っているが、数年前までは御嶽山で登山もしていたという。
 これまでも市内の小中学校に出向き、戦争体験を語ってきた。「口が動く限り、怖さを伝えていきたい。生きているうちは使ってください」。
 語りつぐ会の総会では、今年度の活動方針などを決め、今年も6月20日、豊橋市湊町公園で犠牲者を追悼する。6月18日には、平和講演会を同市牟呂町のコープあいち豊橋生協会館で開く。
(中村晋也)

 1945(昭和20)年6月の豊橋空襲で大けがを負った白井門治さん=豊橋市大手町=が16日、同市民センターで開かれた市民団体「豊橋空襲を語りつぐ会」の総会で「豊橋空襲・18歳の体験…子どもたちに語り継ぎたい」を演題に講演した。90歳になった今もかくしゃくとし、語り部として活動、今後も「戦争の怖さを伝えていきたい」と話した。
 豊橋空襲は45年6月19日深夜から20日未明にかけて米軍機が空爆、市中心部を焼き尽くし、624人が犠牲となった。
 「火は地面を這っていた」「頭の上に飛行機がブンブン飛んでいた」-。72年前、18歳だった白井さんが当時を振り返った。焼夷弾に吹き飛ばされたが、地面にたたきつけられて意識が戻ったという。
 すると「何かぬるぬるしていた。左足の指がない。神経がまひしていたのか、痛くないんですよ。歩けず、這いつくばって防空壕の中に逃げた」。空襲の惨状を生々しく語った。
 約2カ月後に終戦を迎えたが、市内の病院で入院生活。「1年半ぐらいは歩けず病院暮らし。杖をつかず、実際に歩けるようになるまで2年ぐらいかかったと思う」と話した。
 夏には「包帯をとると、うじ虫。神経を吸われるとものすごい痛み。虫を落とし、新しい包帯に替えてくれた。全身にやけどを負った人は、体がうじ虫で真っ白だった」と述懐した。
 足に後遺症が残り、坂道は体を横向きにして上っているが、数年前までは御嶽山で登山もしていたという。
 これまでも市内の小中学校に出向き、戦争体験を語ってきた。「口が動く限り、怖さを伝えていきたい。生きているうちは使ってください」。
 語りつぐ会の総会では、今年度の活動方針などを決め、今年も6月20日、豊橋市湊町公園で犠牲者を追悼する。6月18日には、平和講演会を同市牟呂町のコープあいち豊橋生協会館で開く。
(中村晋也)

豊橋空襲について話す白井さん㊨=豊橋市民センターで
豊橋空襲について話す白井さん㊨=豊橋市民センターで

カテゴリー:社会・経済

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