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内浦接骨院が42年の歴史に幕

閉院した内浦接骨院
閉院した内浦接骨院
内浦接骨院が42年の歴史に幕
内浦接骨院が42年の歴史に幕

 大みそか、豊橋市内のとある接骨院が静かに閉じた。取材を申し込んだが「もう閉めるので何もないから」と遠慮された。地域の情報発信と人材交流サロン「ばったり堂」の内浦有美社長が、経緯と家族の様子を伝える。
【編集・山田一晶】

 12月31日で内浦接骨院(湧泉堂鍼灸院)が閉院となりました。ばったり堂隣の私の実家です。父が一人で始めた開院から42年、見習いの頃から数えると52年、土曜の午後と日曜祝日以外の毎日、朝から夜まで診療を続けました。父が28歳の時に私が生まれ、今年で70歳になりました。
 昨年夏頃でしょうか。突然、父が「年内に閉める」とひとこと、言いました。健康の問題ではありません。「え! 辞めてどうするの。時間持て余すって」「早々にボケちゃうよ、やめてよ」「まだ患者さん来てくれてるじゃない」「週3日とか、午前だけの開院とかにしたら」-。私は父母と顔を合わせるたびに口うるさく言いました。
 ある時、父のいないリビングで母と二人になった時のことです。
 母「お父さん廃業届、出しちゃったって」
 私「廃業届なんかいつでも出せる。今からでも取り消しを申し出たらいいじゃない。いったん長期休診にして、リフレッシュして再開するとか。保険診療をやめて自費の鍼治療やマッサージだけ続けるとか…」
 母「届け出、速達で出したって(笑い)」
 私「…」
 母「続けてきたのはお父さんだからねえ」
 母はこれまでずっと(十数年間)、父が休診日を増やしたがったり、閉院したがることを、鬼のように怒ってきました。「働かなくなったら、時間を持て余すでしょう-」。そう言われることを承知で、父は母をからかうように「ああ、休みたいな」と毎度ボヤき、怒らせていました。その母が、今回はあっさりと、静かに「私はもう何も言わない」と。
 私は、はっと思い出しました。会社員をして5年半が過ぎたころ、家族全員を集めて、突然「会社を辞めて、独立します」と宣言したことがありました(その頃は東京に住んでいて、5年半の間に何度か転勤も経験していました)。誰に何の相談もなく。母や祖母たちは「そんな、急に」「大丈夫なの」と心配の言葉をつぶやく中で、父がひと言ぽつりと「そうか、やってみたらいいんじゃないか」と。
 その頃は父母と私の仲が良くなかったし、仕事の話などしたことがなかったので、反対されることを覚悟で臨んだ家族会議でした。背中を押される、とはこのことでしょうか。人生で後にも先にもこれ以上はない、父の言葉は心強く、一歩を踏み出すのに十分な勇気をくれるものでした。
 当時存命だった祖父も父に続いて「応援するよ、頑張って」というような言葉を言ってくれたように思います。祖父も祖母と二人で豊橋・呉服町でゼロからたこ焼き屋を始め、74歳くらいまで半世紀以上、皆に親しまれるたこ焼きを作り続けました。
 祖父も父も、自分で起業し、続けていくことの苦労、喜び、充実を、知っていたのだと思います。期せずして娘も同じ道を選ぶのか、つらいぞ、大変だぞ、でも面白いぞ…。何も言わず、見守る覚悟を、その時してくれたのだと思いました。
 そう思い出した時、私はもう何も言ってはいけないような気がしました。
 私が小さかった頃の接骨院の診察室や待合室には(介護や保険の制度が変わり高齢者を対象にしたデイサービスなどが今のような盛隆となる前は)、朝早くから多くのおじいちゃんやおばあちゃんたちがやってきていましたし、夕方になると目の前の小学校の児童や、部活帰りの中高生、大学生もたくさん患者として来ていました。
 朝から晩までひっきりなしに訪れてくれる患者さんたち、開院時からずっと手伝ってきた母に加え、多い時で3~4人くらいは従業員を雇っていたように思います。私が会社員時代にぎっくり腰から腰椎ヘルニアになってしまい、ブロック注射も効かず足のまひがとれず「手術しないと治らない」と医者に宣告された時も、2カ月の鍼灸治療とリハビリで完治までもっていってくれたのは父でした(鍼灸治療の腕は、本当にピカイチだと思います)。
 小さい頃に歯痛を鍼で抑えてくれたのも、骨折や捻挫を治してくれたのも、頭痛や腱鞘炎や頸椎ヘルニアを治してくれたのも、妹の受験の時に集中力の高まるツボ(家族通称、頭の良くなるツボ)を押したりしたのも、父でした。
 母が少し前に言っていました。「知人や患者さんに少しずつお知らせを始めているんだけど『うかがいたいのだけれど…もうすぐと分かっていても…いま体で痛いところはなくって…』という人が多くてね」。そりゃそうだ。これから父はたっぷり時間があると思うので、気が向いた方は(体が痛くなくても)よかったら気軽に遊びに来てください。
 私が言うのもおかしいのですが、いままでご来院いただいた皆さま、本当に長い間ありがとうございました。心より深く感謝申し上げます。
 そして、お父さん、長い間、本当にお疲れさまでした。第二の人生を楽しんでください。
(ばったり堂社長 内浦有美)

 大みそか、豊橋市内のとある接骨院が静かに閉じた。取材を申し込んだが「もう閉めるので何もないから」と遠慮された。地域の情報発信と人材交流サロン「ばったり堂」の内浦有美社長が、経緯と家族の様子を伝える。
【編集・山田一晶】

 12月31日で内浦接骨院(湧泉堂鍼灸院)が閉院となりました。ばったり堂隣の私の実家です。父が一人で始めた開院から42年、見習いの頃から数えると52年、土曜の午後と日曜祝日以外の毎日、朝から夜まで診療を続けました。父が28歳の時に私が生まれ、今年で70歳になりました。
 昨年夏頃でしょうか。突然、父が「年内に閉める」とひとこと、言いました。健康の問題ではありません。「え! 辞めてどうするの。時間持て余すって」「早々にボケちゃうよ、やめてよ」「まだ患者さん来てくれてるじゃない」「週3日とか、午前だけの開院とかにしたら」-。私は父母と顔を合わせるたびに口うるさく言いました。
 ある時、父のいないリビングで母と二人になった時のことです。
 母「お父さん廃業届、出しちゃったって」
 私「廃業届なんかいつでも出せる。今からでも取り消しを申し出たらいいじゃない。いったん長期休診にして、リフレッシュして再開するとか。保険診療をやめて自費の鍼治療やマッサージだけ続けるとか…」
 母「届け出、速達で出したって(笑い)」
 私「…」
 母「続けてきたのはお父さんだからねえ」
 母はこれまでずっと(十数年間)、父が休診日を増やしたがったり、閉院したがることを、鬼のように怒ってきました。「働かなくなったら、時間を持て余すでしょう-」。そう言われることを承知で、父は母をからかうように「ああ、休みたいな」と毎度ボヤき、怒らせていました。その母が、今回はあっさりと、静かに「私はもう何も言わない」と。
 私は、はっと思い出しました。会社員をして5年半が過ぎたころ、家族全員を集めて、突然「会社を辞めて、独立します」と宣言したことがありました(その頃は東京に住んでいて、5年半の間に何度か転勤も経験していました)。誰に何の相談もなく。母や祖母たちは「そんな、急に」「大丈夫なの」と心配の言葉をつぶやく中で、父がひと言ぽつりと「そうか、やってみたらいいんじゃないか」と。
 その頃は父母と私の仲が良くなかったし、仕事の話などしたことがなかったので、反対されることを覚悟で臨んだ家族会議でした。背中を押される、とはこのことでしょうか。人生で後にも先にもこれ以上はない、父の言葉は心強く、一歩を踏み出すのに十分な勇気をくれるものでした。
 当時存命だった祖父も父に続いて「応援するよ、頑張って」というような言葉を言ってくれたように思います。祖父も祖母と二人で豊橋・呉服町でゼロからたこ焼き屋を始め、74歳くらいまで半世紀以上、皆に親しまれるたこ焼きを作り続けました。
 祖父も父も、自分で起業し、続けていくことの苦労、喜び、充実を、知っていたのだと思います。期せずして娘も同じ道を選ぶのか、つらいぞ、大変だぞ、でも面白いぞ…。何も言わず、見守る覚悟を、その時してくれたのだと思いました。
 そう思い出した時、私はもう何も言ってはいけないような気がしました。
 私が小さかった頃の接骨院の診察室や待合室には(介護や保険の制度が変わり高齢者を対象にしたデイサービスなどが今のような盛隆となる前は)、朝早くから多くのおじいちゃんやおばあちゃんたちがやってきていましたし、夕方になると目の前の小学校の児童や、部活帰りの中高生、大学生もたくさん患者として来ていました。
 朝から晩までひっきりなしに訪れてくれる患者さんたち、開院時からずっと手伝ってきた母に加え、多い時で3~4人くらいは従業員を雇っていたように思います。私が会社員時代にぎっくり腰から腰椎ヘルニアになってしまい、ブロック注射も効かず足のまひがとれず「手術しないと治らない」と医者に宣告された時も、2カ月の鍼灸治療とリハビリで完治までもっていってくれたのは父でした(鍼灸治療の腕は、本当にピカイチだと思います)。
 小さい頃に歯痛を鍼で抑えてくれたのも、骨折や捻挫を治してくれたのも、頭痛や腱鞘炎や頸椎ヘルニアを治してくれたのも、妹の受験の時に集中力の高まるツボ(家族通称、頭の良くなるツボ)を押したりしたのも、父でした。
 母が少し前に言っていました。「知人や患者さんに少しずつお知らせを始めているんだけど『うかがいたいのだけれど…もうすぐと分かっていても…いま体で痛いところはなくって…』という人が多くてね」。そりゃそうだ。これから父はたっぷり時間があると思うので、気が向いた方は(体が痛くなくても)よかったら気軽に遊びに来てください。
 私が言うのもおかしいのですが、いままでご来院いただいた皆さま、本当に長い間ありがとうございました。心より深く感謝申し上げます。
 そして、お父さん、長い間、本当にお疲れさまでした。第二の人生を楽しんでください。
(ばったり堂社長 内浦有美)

閉院した内浦接骨院
閉院した内浦接骨院
内浦接骨院が42年の歴史に幕
内浦接骨院が42年の歴史に幕

カテゴリー:社会・経済

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