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豊橋の百年を刻む「豊川堂」

豊川堂本部(豊橋市呉服町40)
豊川堂本部(豊橋市呉服町40)
自ら編集制作した地理の教科書とカラー刷り宝飯郡地図
自ら編集制作した地理の教科書とカラー刷り宝飯郡地図

 第十五代社長髙須大輔は2021年秋、豊川堂として情報誌「ぴあ」に全面協力し、地元豊橋の名品名所名店の取材先捜しやネタ探しに奔走していた。ようやく完成した「まるごとぜんぶ豊橋の本」は好調な売り上げで、掲載されたところは、豊橋市民が聞いて納得、見て納得を網羅することができた。 
 その話を聞きつけたのか、自身もかつて店の経営のため数年間受講していたNPO法人「本の学校」から、書店人向け春の講座の講師を頼まれた。
 豊川堂の何を紹介したらいいのだろう。業務内容は単に本の販売だけではない。自費出版の支援と販売も手がけ、学校図書館に納める図書類のデータ化やバーコード処理も長年やってきた。カルミアをはじめ近隣には支店もあり、呉服町の通りの反対側にはLL英語教室の看板も見える。十四代目の父は「とよはし市電を愛する会」の会長もやっている。思案にくれながら、書庫にある明治時代の教科書を手に取った。この書店部門そのものは、十代目又八郎光久が1874年に豊川堂を設立して地理教科書の著作と印刷を始めたと聞いている。でも、この地に移り住んだご先祖たちはみそ・しょうゆ製造業だったのに、なぜ本屋を始めたのだろう。うちの先祖はどこからやって来たのだろう。
 そこで、菩提寺である悟真寺を訪ねてみた。過去帳を見せてもらうと、代々の一族の名前と職業、生没年が全て書いてある。初代とある髙須七ノ助朝蓮(ともつら)は1577年生まれの次男とある。天正年間に、美濃土岐一族明智氏から髙須姓に改め、この豊橋の地にやって来たことがわかった。商人なのに名字を与えられ、それなりの名士であったことがうかがわれる。
 その代々の人物に書き込まれた職業を見ると、赤みそにたまりしょうゆの製造販売兼質屋「髙須屋」とある。そこに呉服屋を始めた四代目権左衛門清響。八代目権左衛門教處はみそしょうゆ部門を廃業して、呉服屋と質屋に絞り込んだ。ところが大政奉還という時代の大変革が起きたときに、旧幕府に貸したお金はなんの補償もなく全て債務切り捨てとなってしまった。あまりにも突然店の資金が枯渇した。このときに倒産した大阪や江戸の大商人は数知れず。
 それが、1874(明治7)年、生き残りをかけて十代目又八郎光久は明治政府の学制発布とともに文科省から教科書の版権を買い、出版と販売を始めることにしたのだった。このときに郷土史ともなる地理は自分たちで編集し、印刷職人も専門に雇い、木版カラー刷りで出版した。
 もしかするとこれがきっかけで、地元のためにできることをしようという家風が生まれたのかと大輔は思った。十一代目廣治は、書店業ではない豊橋幼稚園や東雲座の設立に協力している。
 「文字で残していかないといけないものがある」
 父博久が常々言っていることが頭に響いた。
 それによって地域文化を継承していくお役を担うのだ。髙須家はそれがDNAに刻み込まれているようだ。ご先祖は皆、豊橋のためにという思いで挑戦し、事業拡大を続け、時代の変革の波を乗り越えてきた。
 ようやく「本の学校」書店人教育講座の講義テーマが決まった。地方の書店だからこそできることを伝えよう。こうして今年5月20日、オンライン講座「地域出版への取り組み ~地域情報誌出版を通じて見えた書店の強み~」を講義することができた。
     ◇
 豊橋にある百年超の事業所や個人経営店を紹介します。情報提供は「豊橋創業百年会」発起人、竹上裕子(竹上豆富店)宛にファクス(0532・62・1985)で。

 第十五代社長髙須大輔は2021年秋、豊川堂として情報誌「ぴあ」に全面協力し、地元豊橋の名品名所名店の取材先捜しやネタ探しに奔走していた。ようやく完成した「まるごとぜんぶ豊橋の本」は好調な売り上げで、掲載されたところは、豊橋市民が聞いて納得、見て納得を網羅することができた。 
 その話を聞きつけたのか、自身もかつて店の経営のため数年間受講していたNPO法人「本の学校」から、書店人向け春の講座の講師を頼まれた。
 豊川堂の何を紹介したらいいのだろう。業務内容は単に本の販売だけではない。自費出版の支援と販売も手がけ、学校図書館に納める図書類のデータ化やバーコード処理も長年やってきた。カルミアをはじめ近隣には支店もあり、呉服町の通りの反対側にはLL英語教室の看板も見える。十四代目の父は「とよはし市電を愛する会」の会長もやっている。思案にくれながら、書庫にある明治時代の教科書を手に取った。この書店部門そのものは、十代目又八郎光久が1874年に豊川堂を設立して地理教科書の著作と印刷を始めたと聞いている。でも、この地に移り住んだご先祖たちはみそ・しょうゆ製造業だったのに、なぜ本屋を始めたのだろう。うちの先祖はどこからやって来たのだろう。
 そこで、菩提寺である悟真寺を訪ねてみた。過去帳を見せてもらうと、代々の一族の名前と職業、生没年が全て書いてある。初代とある髙須七ノ助朝蓮(ともつら)は1577年生まれの次男とある。天正年間に、美濃土岐一族明智氏から髙須姓に改め、この豊橋の地にやって来たことがわかった。商人なのに名字を与えられ、それなりの名士であったことがうかがわれる。
 その代々の人物に書き込まれた職業を見ると、赤みそにたまりしょうゆの製造販売兼質屋「髙須屋」とある。そこに呉服屋を始めた四代目権左衛門清響。八代目権左衛門教處はみそしょうゆ部門を廃業して、呉服屋と質屋に絞り込んだ。ところが大政奉還という時代の大変革が起きたときに、旧幕府に貸したお金はなんの補償もなく全て債務切り捨てとなってしまった。あまりにも突然店の資金が枯渇した。このときに倒産した大阪や江戸の大商人は数知れず。
 それが、1874(明治7)年、生き残りをかけて十代目又八郎光久は明治政府の学制発布とともに文科省から教科書の版権を買い、出版と販売を始めることにしたのだった。このときに郷土史ともなる地理は自分たちで編集し、印刷職人も専門に雇い、木版カラー刷りで出版した。
 もしかするとこれがきっかけで、地元のためにできることをしようという家風が生まれたのかと大輔は思った。十一代目廣治は、書店業ではない豊橋幼稚園や東雲座の設立に協力している。
 「文字で残していかないといけないものがある」
 父博久が常々言っていることが頭に響いた。
 それによって地域文化を継承していくお役を担うのだ。髙須家はそれがDNAに刻み込まれているようだ。ご先祖は皆、豊橋のためにという思いで挑戦し、事業拡大を続け、時代の変革の波を乗り越えてきた。
 ようやく「本の学校」書店人教育講座の講義テーマが決まった。地方の書店だからこそできることを伝えよう。こうして今年5月20日、オンライン講座「地域出版への取り組み ~地域情報誌出版を通じて見えた書店の強み~」を講義することができた。
     ◇
 豊橋にある百年超の事業所や個人経営店を紹介します。情報提供は「豊橋創業百年会」発起人、竹上裕子(竹上豆富店)宛にファクス(0532・62・1985)で。

豊川堂本部(豊橋市呉服町40)
豊川堂本部(豊橋市呉服町40)
自ら編集制作した地理の教科書とカラー刷り宝飯郡地図
自ら編集制作した地理の教科書とカラー刷り宝飯郡地図

カテゴリー:社会・経済 / 特集

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