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豊川海軍工廠空襲から72年 「八七会」が慰霊祭

雨の中、刻まれた戦没者の名前に触る遺族=豊川海軍工廠戦没者供養塔で
雨の中、刻まれた戦没者の名前に触る遺族=豊川海軍工廠戦没者供養塔で

 米軍の爆撃で2500人以上が亡くなった豊川海軍工廠(しょう)の空襲から72年となった7日、遺族らでなる「八七会」(大石辰己会長)の慰霊祭が豊川市緑町の供養塔で営まれた。台風接近により、主催者も「過去に記憶がない」と言う雨の慰霊の日となった。
 約50人が訪れた中、豊川稲荷の僧侶によってお経が唱えられ、傘を手にした参列者が一人ずつ焼香し、戦没者に祈りをささげた。
 72年前の空襲の日と同様に「8月7日」は例年、強い日差しが照り付ける日だった。当時15歳で機銃部に従事し、空襲を生き延びた松嶋栄二郎さん(87)=常滑市=は「もう40年近く来ているが、こんな雨は初めて。いつも8月7日はあの日と同じカンカン照りだった」と話した。当時小学生の頃、工廠にいた兄を亡くした豊橋市の女性(82)は「たまには涼しい日に会いに来てということなんでしょう」と微笑み、石碑に記された兄と同僚らの名前に触れた。
 大石会長は「この雨は、平和のことをもっと真剣に考えないかんぞというお叱りの意味もあるでしょう。反省します」と雨空を見上げたが、平和を愛する心は後世に受け継がれている。
 毎年、供養塔の両端を彩る千羽鶴を折り続けた女性が今年1月に逝去。それでも、遺志を受け継いだ三蔵子小学校の児童らと、大阪府茨木市在住の遺族・奥野幸子さんが折り鶴を寄せた。
 台風の影響で、豊川市主催の平和祈念式典や豊橋東高校での祈念集会は中止となった。
(由本裕貴)

 米軍の爆撃で2500人以上が亡くなった豊川海軍工廠(しょう)の空襲から72年となった7日、遺族らでなる「八七会」(大石辰己会長)の慰霊祭が豊川市緑町の供養塔で営まれた。台風接近により、主催者も「過去に記憶がない」と言う雨の慰霊の日となった。
 約50人が訪れた中、豊川稲荷の僧侶によってお経が唱えられ、傘を手にした参列者が一人ずつ焼香し、戦没者に祈りをささげた。
 72年前の空襲の日と同様に「8月7日」は例年、強い日差しが照り付ける日だった。当時15歳で機銃部に従事し、空襲を生き延びた松嶋栄二郎さん(87)=常滑市=は「もう40年近く来ているが、こんな雨は初めて。いつも8月7日はあの日と同じカンカン照りだった」と話した。当時小学生の頃、工廠にいた兄を亡くした豊橋市の女性(82)は「たまには涼しい日に会いに来てということなんでしょう」と微笑み、石碑に記された兄と同僚らの名前に触れた。
 大石会長は「この雨は、平和のことをもっと真剣に考えないかんぞというお叱りの意味もあるでしょう。反省します」と雨空を見上げたが、平和を愛する心は後世に受け継がれている。
 毎年、供養塔の両端を彩る千羽鶴を折り続けた女性が今年1月に逝去。それでも、遺志を受け継いだ三蔵子小学校の児童らと、大阪府茨木市在住の遺族・奥野幸子さんが折り鶴を寄せた。
 台風の影響で、豊川市主催の平和祈念式典や豊橋東高校での祈念集会は中止となった。
(由本裕貴)

雨の中、刻まれた戦没者の名前に触る遺族=豊川海軍工廠戦没者供養塔で
雨の中、刻まれた戦没者の名前に触る遺族=豊川海軍工廠戦没者供養塔で

カテゴリー:社会・経済

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