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見習い工員の日々①~戦後74年~

カテゴリー:特集

養成所で点呼を受ける見習い工員たち(豊川市提供)
養成所で点呼を受ける見習い工員たち(豊川市提供)

 戦争は、多くの若者の人生を変えた。豊川海軍工廠(しょう)に従事する人材を育成するため、現在の豊川工業高校付近にあった養成所には10代の若者が見習い工員として入所した。大石辰己さん(90)と森田和夫さん(88)の体験談を基に、過酷な日々や当時の風潮などを振り返る。

連帯責任の怖い「罰直」

 旧稲武町生まれの大石さんは15歳だった1944(昭和19)年、学校の教員の命令で養成所に入所。師範学校に進み、教壇に立つ夢があったが「上司の命令は天皇陛下の命令と思えと言われ、あきらめていた」。初めて豊川に来た際、砂埃が舞う広い道の向こうに工廠の巨大な煙突が立つ光景に「恐ろしいところに来てしまった」と感じた。
 工廠の幹部候補を育てる名目で設置された養成所では上下関係が厳しく、座学で居眠りをすると立たされたり、顔をたたかれた。何事も「5分前厳守」で、時間に遅れたりミスをすると教官から「罰直」が下った。大石さんは「罰直が怖くて、朝は布団の中で着替えて飛び起きるようにして起床した」。海軍方式で「総員、甲板に集合!」の号令がかかると、船のデッキ代わりの廊下に整列して点呼を取った。
 14歳で入所した森田さんは日記に、夜の点呼で同部屋の仲間全員と罰直を受けたことを記している。きっかけは、同期の一人が鼻歌を歌っているところを副寮長に見られたことだった。連帯責任が基本で、全員が仰向けになり「やめ」と言われるまで足を15度ほどの角度に上げ続けた。教官は「足を下ろすとほっぺたと交換だ」とビンタをちらつかせた。
 大石さんの記憶では、ほかにも棒で尻を力強くたたかれる「海軍精神注入棒」や、見習い同士でほおをたたき合う「対抗ビンタ」もあった。げんこつをくらうごとに「ありがとうございました」と頭を下げた。
 養成所はノミやシラミだらけの劣悪な環境で、入浴は週2回に限られた。森田さんは新城市の実家を離れ、養成所に入った初日の夜を「床に入っているとノミが食いついた。かゆい、かゆい。なかなか眠れない」と回想する。
(由本裕貴)
※第1話のみHPに掲載しました。2話以降は紙面でお楽しみください。

 戦争は、多くの若者の人生を変えた。豊川海軍工廠(しょう)に従事する人材を育成するため、現在の豊川工業高校付近にあった養成所には10代の若者が見習い工員として入所した。大石辰己さん(90)と森田和夫さん(88)の体験談を基に、過酷な日々や当時の風潮などを振り返る。

連帯責任の怖い「罰直」

 旧稲武町生まれの大石さんは15歳だった1944(昭和19)年、学校の教員の命令で養成所に入所。師範学校に進み、教壇に立つ夢があったが「上司の命令は天皇陛下の命令と思えと言われ、あきらめていた」。初めて豊川に来た際、砂埃が舞う広い道の向こうに工廠の巨大な煙突が立つ光景に「恐ろしいところに来てしまった」と感じた。
 工廠の幹部候補を育てる名目で設置された養成所では上下関係が厳しく、座学で居眠りをすると立たされたり、顔をたたかれた。何事も「5分前厳守」で、時間に遅れたりミスをすると教官から「罰直」が下った。大石さんは「罰直が怖くて、朝は布団の中で着替えて飛び起きるようにして起床した」。海軍方式で「総員、甲板に集合!」の号令がかかると、船のデッキ代わりの廊下に整列して点呼を取った。
 14歳で入所した森田さんは日記に、夜の点呼で同部屋の仲間全員と罰直を受けたことを記している。きっかけは、同期の一人が鼻歌を歌っているところを副寮長に見られたことだった。連帯責任が基本で、全員が仰向けになり「やめ」と言われるまで足を15度ほどの角度に上げ続けた。教官は「足を下ろすとほっぺたと交換だ」とビンタをちらつかせた。
 大石さんの記憶では、ほかにも棒で尻を力強くたたかれる「海軍精神注入棒」や、見習い同士でほおをたたき合う「対抗ビンタ」もあった。げんこつをくらうごとに「ありがとうございました」と頭を下げた。
 養成所はノミやシラミだらけの劣悪な環境で、入浴は週2回に限られた。森田さんは新城市の実家を離れ、養成所に入った初日の夜を「床に入っているとノミが食いついた。かゆい、かゆい。なかなか眠れない」と回想する。
(由本裕貴)
※第1話のみHPに掲載しました。2話以降は紙面でお楽しみください。

養成所で点呼を受ける見習い工員たち(豊川市提供)
養成所で点呼を受ける見習い工員たち(豊川市提供)

カテゴリー:特集

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