サロン席「謡曲『三州鳳来寺』の復活上演」
「この指とまれ!」と誰かが、指を高く掲げないと「ものごと」は始まらない。ホームレスを見ても、冤罪獄中者の訴えを聞いても、心は痛むが「誰かがやるだろう」と自らは立ち上がれない。政治に絡むことは政党や団体があるから立ち上がりやすそうだが、市民運動とまではなかなか進展しない。直接利害がなければ無関心で過ごしたいものだ。これが文化面であればなおさらで、頼りの公共は「賛意」しか反応しない。結局、言い出しっぺの自らが資金集めとなるので、誰も指を掲げない。だから文化に関わる市民運動は動きが鈍い。
15年間つづくNPO三河三座(伊藤秀子理事長)は、地域に眠る伝統芸能を復活させ「まちを楽しくしよう」と、公共に頼らず資金は民間から集めることをモットーにしてきた。そして今、新しい試みを実践中で、「この指とまれ!」の山場を迎えている。
鳳来寺(新城市)は山全体が国の名勝・天然記念物に指定されている鳳来寺山にある古刹である。1300年ほど前、この山は桐の大木が繁ることから桐生山と言われた。そこに、朝鮮の百済に渡って不老長寿の術を身に付けた利修という仙人が修行を続け、仙人は鳳凰に乗って空を飛んだと伝えられている。そしてその名は遠く京都まで知れ渡っていたそうである。
その頃(大宝年間、701~704年)、文武(もんむ)天皇が病気になられ、利修仙人に病気を直す祈とうをお願いしようと勅使として草鹿砥公宣(くさかどのきんのぶ)を派遣して利修仙人に頼みに来た。利修仙人はあれやこれや言って断るも、拒みきれず、仙人は鳳凰に乗って京都に向かった。宮中で利修仙人は17日間、加持祈とうを行ない、天皇は完治された。全快を喜んだ天皇は、利修仙人を開祖として山に寺を建て、寺の名前を鳳凰に乗って来たことから鳳来寺と名付けられた。こういった伝承を元に三代将軍徳川家光、四代家綱の時代に「三州鳳来寺」という謡曲がつくられた。
謡曲とは謡(うたい)ともいわれるお能の台本で、室町時代から続く能楽の歴史上、謡曲は2500曲以上作られたとされる。その中で、現在まで上演されているのは約250曲といい、題材や曲名は全国の地名と結びついているものも多く、紀伊の「道成寺」、三保の松原の「羽衣」、西三河の「杜若(かきつばた)」など、日本各地がその舞台になっている。
謡曲「三州鳳来寺」は郷土の能楽愛好家らにはその存在が知られ、「いつか復曲能として再現してみたい」という機運はあったといわれるが、廃曲扱いであった。ところが2003年9月27日に鳳来寺開山1300年祭慶讃法要が営まれ、その場で謡曲「三州鳳来寺」の素謡が奉納された。しかし、復曲までには至らなかった。
NPO三河三座が謡曲「三州鳳来寺」の存在を知ったのは、それから数年後のことであった。この謡曲を本格的なお能に仕上げ、三河で上演できればNPO三河三座の目的に合致できると「この指とまれ!」と実行委員会結成を呼び掛けた。謡曲「三州鳳来寺」の復活上演(復曲)は「家光時代の文化復活」として能楽に無関心な人々も関心を持つだろうとの思いからだ。しかし、コロナ禍がストップをかけ数年遅れた。
そして、ついに5月13日(土)に豊橋市の「穂の国とよはし芸術劇場プラット」で復元された本格的なお能公演が行われることとなった。
この趣旨に賛同されたネットワークもでき、協賛広告集めも山場を迎えているが「この指にとまります」という余裕はまだまだありそうです。
演者は観世流能役者、味方玄(みかた・しずか)さん。1966年、」能楽師味方健の長男として京都に生まれる。幼少より父に手ほどきを受け、86年に人間国宝片山幽雪に内弟子入門。91年独立。2001年京都市芸術新人賞、04年京都府文化賞奨励賞を受賞。11年重要無形文化財(総合)。18年興福寺の中金堂落慶法要にて「菊慈童」を奉納。ドイツ、アメリカ、フランス、ブラジルなどで国際公演。京都能楽協会理事。
(NPO法人三河三座理事水谷眞理)
「この指とまれ!」と誰かが、指を高く掲げないと「ものごと」は始まらない。ホームレスを見ても、冤罪獄中者の訴えを聞いても、心は痛むが「誰かがやるだろう」と自らは立ち上がれない。政治に絡むことは政党や団体があるから立ち上がりやすそうだが、市民運動とまではなかなか進展しない。直接利害がなければ無関心で過ごしたいものだ。これが文化面であればなおさらで、頼りの公共は「賛意」しか反応しない。結局、言い出しっぺの自らが資金集めとなるので、誰も指を掲げない。だから文化に関わる市民運動は動きが鈍い。
15年間つづくNPO三河三座(伊藤秀子理事長)は、地域に眠る伝統芸能を復活させ「まちを楽しくしよう」と、公共に頼らず資金は民間から集めることをモットーにしてきた。そして今、新しい試みを実践中で、「この指とまれ!」の山場を迎えている。
鳳来寺(新城市)は山全体が国の名勝・天然記念物に指定されている鳳来寺山にある古刹である。1300年ほど前、この山は桐の大木が繁ることから桐生山と言われた。そこに、朝鮮の百済に渡って不老長寿の術を身に付けた利修という仙人が修行を続け、仙人は鳳凰に乗って空を飛んだと伝えられている。そしてその名は遠く京都まで知れ渡っていたそうである。
その頃(大宝年間、701~704年)、文武(もんむ)天皇が病気になられ、利修仙人に病気を直す祈とうをお願いしようと勅使として草鹿砥公宣(くさかどのきんのぶ)を派遣して利修仙人に頼みに来た。利修仙人はあれやこれや言って断るも、拒みきれず、仙人は鳳凰に乗って京都に向かった。宮中で利修仙人は17日間、加持祈とうを行ない、天皇は完治された。全快を喜んだ天皇は、利修仙人を開祖として山に寺を建て、寺の名前を鳳凰に乗って来たことから鳳来寺と名付けられた。こういった伝承を元に三代将軍徳川家光、四代家綱の時代に「三州鳳来寺」という謡曲がつくられた。
謡曲とは謡(うたい)ともいわれるお能の台本で、室町時代から続く能楽の歴史上、謡曲は2500曲以上作られたとされる。その中で、現在まで上演されているのは約250曲といい、題材や曲名は全国の地名と結びついているものも多く、紀伊の「道成寺」、三保の松原の「羽衣」、西三河の「杜若(かきつばた)」など、日本各地がその舞台になっている。
謡曲「三州鳳来寺」は郷土の能楽愛好家らにはその存在が知られ、「いつか復曲能として再現してみたい」という機運はあったといわれるが、廃曲扱いであった。ところが2003年9月27日に鳳来寺開山1300年祭慶讃法要が営まれ、その場で謡曲「三州鳳来寺」の素謡が奉納された。しかし、復曲までには至らなかった。
NPO三河三座が謡曲「三州鳳来寺」の存在を知ったのは、それから数年後のことであった。この謡曲を本格的なお能に仕上げ、三河で上演できればNPO三河三座の目的に合致できると「この指とまれ!」と実行委員会結成を呼び掛けた。謡曲「三州鳳来寺」の復活上演(復曲)は「家光時代の文化復活」として能楽に無関心な人々も関心を持つだろうとの思いからだ。しかし、コロナ禍がストップをかけ数年遅れた。
そして、ついに5月13日(土)に豊橋市の「穂の国とよはし芸術劇場プラット」で復元された本格的なお能公演が行われることとなった。
この趣旨に賛同されたネットワークもでき、協賛広告集めも山場を迎えているが「この指にとまります」という余裕はまだまだありそうです。
演者は観世流能役者、味方玄(みかた・しずか)さん。1966年、」能楽師味方健の長男として京都に生まれる。幼少より父に手ほどきを受け、86年に人間国宝片山幽雪に内弟子入門。91年独立。2001年京都市芸術新人賞、04年京都府文化賞奨励賞を受賞。11年重要無形文化財(総合)。18年興福寺の中金堂落慶法要にて「菊慈童」を奉納。ドイツ、アメリカ、フランス、ブラジルなどで国際公演。京都能楽協会理事。
(NPO法人三河三座理事水谷眞理)