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豊橋空襲直後の上空写真

岩瀬さんが探し出した空襲直後に撮られた豊橋市の市街地の写真(米軍撮影:拡大)。焼失した部分が白っぽくなっている。
岩瀬さんが探し出した空襲直後に撮られた豊橋市の市街地の写真(米軍撮影:拡大)。焼失した部分が白っぽくなっている。
空襲前の豊橋市の写真(米軍撮影)
空襲前の豊橋市の写真(米軍撮影)

1945(昭和20)年6月19日深夜から20日未明にかけ、豊橋に大きな被害をもたらした「豊橋空襲」で焼失した市街地を上空から撮影した写真が、米国戦略爆撃調査団文書から確認された。兼ねてから戦前・戦後の豊橋を個人的に調査していた、市内の岩瀬彰利さんが探し出したもの。空襲被害を伝える上空写真は、研究者間で存在は知られていたものの、これまで紹介されたことはなく、「市民に空襲被害の実情を知ってもらおう」と8日から豊橋市中央図書館で展示されることになった。
豊橋空襲の被害を上空から写した写真が1枚も見当たらないため、以前から調査研究に励んできた岩瀬さん。機密指定が解除された「米国戦略爆撃調査団文書」(国会図書館蔵)の中に「作戦任務報告書」「空襲損害評価報告書」の存在を知り昨秋から調査、「空襲損害評価報告書」に空襲直後の写真を確認した。
 報告書は空襲の損害に関する文書や写真、地図を集めたもので、マイクロフィルム17巻分(約1万4000コマ)。岩瀬さんによると、豊橋空襲に関する資料は作戦要旨などの文章、計算書、表、損害評価図などの地図、写真などを集めた23コマが存在し、うち上空から被害を写した写真が1種2枚あった。撮影日は豊橋空襲15日後の7月5日。米軍計画では広小路5丁目(現・3丁目)辺りを爆撃中心点とし、半径4000フィート(約1219㍍)の照準円内に焼夷弾を投下するものだったという。
 焼け野原となった市街地の様子がよく分かる上空写真。空襲15日後ということで、煙もおさまり、瓦礫も撤去され、繁華街が何も無くなっている様子が見て取れる。「焼失地域は豊川~柳生川間の市街地で、西は花田町から東は東田町まで、北は北島町から南は前田南町あたりで、豊川対岸の下地町と柳生川左岸の鍵田町・富本町付近も焼失していることが分かった」と岩瀬さん。市街地でも焼け残った場所があり、地図上では白っぽい光景の中に浮かぶ黒部分で確認できる。現ここにこ周辺や、現中部中学校から向山大池にかけての一区画が焼けずに残っているのが分かる。
 駅周辺が焼け野原になったのに対し、旧十五師団があった陸軍予備士官学校や旧歩兵十八聯隊などは、建物がくっきりと確認できるほど残っており「豊橋空襲のターゲットが市街地であり、軍施設ではないことが写真から分かる」と岩瀬さん。
 今回、岩瀬さんが収集した「空襲損害評価報告書」の複製・写真は、中央図書館2階で開催中の「平和を求めて」図書館資料展でパネル展示される。会場では米軍撮影による爆撃前の写真と市街地の様子を比較することもできる。「空襲直後の地上からの写真や地図はあるが、上空からの写真は知られておらず、この1枚が唯一と言えるのでは。当時の被害状況を知る上で貴重。写真を解析することで、焼け残った地区や建物の特定ができ、被害状況の把握により新たな知見が得られる可能性も」と岩瀬さんは期待を寄せる。
(田中博子)

1945(昭和20)年6月19日深夜から20日未明にかけ、豊橋に大きな被害をもたらした「豊橋空襲」で焼失した市街地を上空から撮影した写真が、米国戦略爆撃調査団文書から確認された。兼ねてから戦前・戦後の豊橋を個人的に調査していた、市内の岩瀬彰利さんが探し出したもの。空襲被害を伝える上空写真は、研究者間で存在は知られていたものの、これまで紹介されたことはなく、「市民に空襲被害の実情を知ってもらおう」と8日から豊橋市中央図書館で展示されることになった。
豊橋空襲の被害を上空から写した写真が1枚も見当たらないため、以前から調査研究に励んできた岩瀬さん。機密指定が解除された「米国戦略爆撃調査団文書」(国会図書館蔵)の中に「作戦任務報告書」「空襲損害評価報告書」の存在を知り昨秋から調査、「空襲損害評価報告書」に空襲直後の写真を確認した。
 報告書は空襲の損害に関する文書や写真、地図を集めたもので、マイクロフィルム17巻分(約1万4000コマ)。岩瀬さんによると、豊橋空襲に関する資料は作戦要旨などの文章、計算書、表、損害評価図などの地図、写真などを集めた23コマが存在し、うち上空から被害を写した写真が1種2枚あった。撮影日は豊橋空襲15日後の7月5日。米軍計画では広小路5丁目(現・3丁目)辺りを爆撃中心点とし、半径4000フィート(約1219㍍)の照準円内に焼夷弾を投下するものだったという。
 焼け野原となった市街地の様子がよく分かる上空写真。空襲15日後ということで、煙もおさまり、瓦礫も撤去され、繁華街が何も無くなっている様子が見て取れる。「焼失地域は豊川~柳生川間の市街地で、西は花田町から東は東田町まで、北は北島町から南は前田南町あたりで、豊川対岸の下地町と柳生川左岸の鍵田町・富本町付近も焼失していることが分かった」と岩瀬さん。市街地でも焼け残った場所があり、地図上では白っぽい光景の中に浮かぶ黒部分で確認できる。現ここにこ周辺や、現中部中学校から向山大池にかけての一区画が焼けずに残っているのが分かる。
 駅周辺が焼け野原になったのに対し、旧十五師団があった陸軍予備士官学校や旧歩兵十八聯隊などは、建物がくっきりと確認できるほど残っており「豊橋空襲のターゲットが市街地であり、軍施設ではないことが写真から分かる」と岩瀬さん。
 今回、岩瀬さんが収集した「空襲損害評価報告書」の複製・写真は、中央図書館2階で開催中の「平和を求めて」図書館資料展でパネル展示される。会場では米軍撮影による爆撃前の写真と市街地の様子を比較することもできる。「空襲直後の地上からの写真や地図はあるが、上空からの写真は知られておらず、この1枚が唯一と言えるのでは。当時の被害状況を知る上で貴重。写真を解析することで、焼け残った地区や建物の特定ができ、被害状況の把握により新たな知見が得られる可能性も」と岩瀬さんは期待を寄せる。
(田中博子)

岩瀬さんが探し出した空襲直後に撮られた豊橋市の市街地の写真(米軍撮影:拡大)。焼失した部分が白っぽくなっている。
岩瀬さんが探し出した空襲直後に撮られた豊橋市の市街地の写真(米軍撮影:拡大)。焼失した部分が白っぽくなっている。
空襲前の豊橋市の写真(米軍撮影)
空襲前の豊橋市の写真(米軍撮影)

カテゴリー:社会・経済

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