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永福寺の懸魚に作者の子孫“対面”

北河代次郎が彫った懸魚と(右から)昭男さん、米野住職、孝之さん=永福寺で
北河代次郎が彫った懸魚と(右から)昭男さん、米野住職、孝之さん=永福寺で

 豊川市野口町の曹洞宗・永福寺(米野泰豊住職)に12日、寺の本堂に掲げられていた懸魚(げぎょ)を作ったとされる北河代次郎の子孫らが訪れた。
 1999(平成11)年、本堂の改修工事の際、西側の屋根下の懸魚と呼ばれる木の彫刻の裏に「明治33年4月10日 宝飯郡前芝村住 北河代次郎 季恭」と墨で書かれてあるのが発見されていた。
 寺ではこの懸魚を境内の十王堂で展示していたところ、一昨年12月、豊橋市前芝町在住で前芝神明社の元氏子総代・北河昭男さん(86)が親族やその知人を通じて懸魚のことを知り、独自に調査を開始。1年間かけて、同じ前芝町に住む北河代次郎の末裔で、北河孝之さん(64)を探し当てた。
 永福寺は明治の再建。明治33年に屋根が完成した際、北河代次郎が当時、寺社の建築・補修に携わる宮大工として手掛けたと考えられる。孝之さんの家に伝わる過去帳には「明治2年に代次郎死去」とあり、孝之さんは「もしかしたら代次郎の息子が父と同じ名前を名乗ったかもしれません」と話す。
 懸魚は木造建築にみられる火除(ひよ)けの装飾で、水から連想する魚を模した彫刻が特徴的。中央には6枚の葉でなる「六葉」、両脇には雲のような鰭(ひれ)の飾りがある。大きな災厄もなく、近隣住民に親しまれてきた永福寺の米野住職(58)も「ご子孫にお会いできて、本当に感慨深い」と話した。
(由本裕貴)

 豊川市野口町の曹洞宗・永福寺(米野泰豊住職)に12日、寺の本堂に掲げられていた懸魚(げぎょ)を作ったとされる北河代次郎の子孫らが訪れた。
 1999(平成11)年、本堂の改修工事の際、西側の屋根下の懸魚と呼ばれる木の彫刻の裏に「明治33年4月10日 宝飯郡前芝村住 北河代次郎 季恭」と墨で書かれてあるのが発見されていた。
 寺ではこの懸魚を境内の十王堂で展示していたところ、一昨年12月、豊橋市前芝町在住で前芝神明社の元氏子総代・北河昭男さん(86)が親族やその知人を通じて懸魚のことを知り、独自に調査を開始。1年間かけて、同じ前芝町に住む北河代次郎の末裔で、北河孝之さん(64)を探し当てた。
 永福寺は明治の再建。明治33年に屋根が完成した際、北河代次郎が当時、寺社の建築・補修に携わる宮大工として手掛けたと考えられる。孝之さんの家に伝わる過去帳には「明治2年に代次郎死去」とあり、孝之さんは「もしかしたら代次郎の息子が父と同じ名前を名乗ったかもしれません」と話す。
 懸魚は木造建築にみられる火除(ひよ)けの装飾で、水から連想する魚を模した彫刻が特徴的。中央には6枚の葉でなる「六葉」、両脇には雲のような鰭(ひれ)の飾りがある。大きな災厄もなく、近隣住民に親しまれてきた永福寺の米野住職(58)も「ご子孫にお会いできて、本当に感慨深い」と話した。
(由本裕貴)

北河代次郎が彫った懸魚と(右から)昭男さん、米野住職、孝之さん=永福寺で
北河代次郎が彫った懸魚と(右から)昭男さん、米野住職、孝之さん=永福寺で

カテゴリー:社会・経済

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