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「八七会」が最後の慰霊供養祭

供養塔を背に、参列者らに活動終了のあいさつをする森田さん=豊川市緑町で
供養塔を背に、参列者らに活動終了のあいさつをする森田さん=豊川市緑町で
石碑に刻まれた戦没者の名前を確認する豊橋中央高校の生徒ら
石碑に刻まれた戦没者の名前を確認する豊橋中央高校の生徒ら

 豊川海軍工廠(こうしょう)の空襲から75年目となった7日、工廠の元従事者らでつくる「八七会」が、豊川市緑町の供養塔で最後の慰霊供養祭を営んだ。会員らの高齢化により、結成から63年目にして活動を終了する。副会長の森田和夫さん(89)=新城市=は変わらぬ活動への思いを語った。

 例年通り千羽鶴がささげられる中、工廠で命を落とした人の遺族らが献花に訪れ、石碑に刻まれた戦没者の名前に手を触れたり、合掌してしのんだ。午後1時からは豊川稲荷(豊川閣妙厳寺)の僧侶らによる法要が営まれた。
 八七会は1957(昭和32)年の結成以来、毎月7日と20日に供養塔で清掃活動を続けるなどして戦争の悲劇を後世に伝えてきた。しかし会員も若くて90歳前後と高齢化が進み、昨年9月には名古屋市の自宅から精力的に豊川を訪れていた大石辰己会長が病死(享年90)。今年で活動を終え、今後は豊川稲荷が供養塔の清掃や供養を引き継ぐことになった。
 空襲当時、工員養成所の見習いだった森田さんは「活動は終わりますが、元従事者が生存している限り、八七会の名称は消えません」と話し、今後については「活動の余韻が残っていると思うので、毎月7日と20日にはここに顔を出して参拝に来た人にお礼したい」と述べた。
 戦争の歴史を伝える使命は、若い世代が引き継ぐ。この日は豊橋中央高校の生徒9人が訪れ、前身の愛知高等実修女学校から動員され命を落とした先輩の死と向き合った。佐藤琳さん(17)は「自分たちには先輩に起きたことを積極的に知る責任がある。今後も戦争を体験した人の話を聞くなど貴重な機会に参加したい」と話した。
【由本裕貴】

 豊川海軍工廠(こうしょう)の空襲から75年目となった7日、工廠の元従事者らでつくる「八七会」が、豊川市緑町の供養塔で最後の慰霊供養祭を営んだ。会員らの高齢化により、結成から63年目にして活動を終了する。副会長の森田和夫さん(89)=新城市=は変わらぬ活動への思いを語った。

 例年通り千羽鶴がささげられる中、工廠で命を落とした人の遺族らが献花に訪れ、石碑に刻まれた戦没者の名前に手を触れたり、合掌してしのんだ。午後1時からは豊川稲荷(豊川閣妙厳寺)の僧侶らによる法要が営まれた。
 八七会は1957(昭和32)年の結成以来、毎月7日と20日に供養塔で清掃活動を続けるなどして戦争の悲劇を後世に伝えてきた。しかし会員も若くて90歳前後と高齢化が進み、昨年9月には名古屋市の自宅から精力的に豊川を訪れていた大石辰己会長が病死(享年90)。今年で活動を終え、今後は豊川稲荷が供養塔の清掃や供養を引き継ぐことになった。
 空襲当時、工員養成所の見習いだった森田さんは「活動は終わりますが、元従事者が生存している限り、八七会の名称は消えません」と話し、今後については「活動の余韻が残っていると思うので、毎月7日と20日にはここに顔を出して参拝に来た人にお礼したい」と述べた。
 戦争の歴史を伝える使命は、若い世代が引き継ぐ。この日は豊橋中央高校の生徒9人が訪れ、前身の愛知高等実修女学校から動員され命を落とした先輩の死と向き合った。佐藤琳さん(17)は「自分たちには先輩に起きたことを積極的に知る責任がある。今後も戦争を体験した人の話を聞くなど貴重な機会に参加したい」と話した。
【由本裕貴】

供養塔を背に、参列者らに活動終了のあいさつをする森田さん=豊川市緑町で
供養塔を背に、参列者らに活動終了のあいさつをする森田さん=豊川市緑町で
石碑に刻まれた戦没者の名前を確認する豊橋中央高校の生徒ら
石碑に刻まれた戦没者の名前を確認する豊橋中央高校の生徒ら

カテゴリー:社会・経済

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