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渋沢家と郷土豊橋の人びと展 ギャラリートーク①

カテゴリー:特集

現地に残る渋沢栄一の生家(中の家)=埼玉県深谷市で
現地に残る渋沢栄一の生家(中の家)=埼玉県深谷市で

 豊橋市中央図書館は6月20日まで、図書館資料展「渋沢家と郷土豊橋の人びと」を開催している。渋沢栄一は、大蔵官僚を経て第一国立銀行の頭取に就任した近代経済社会の基礎を築いた実業家で、TVドラマや新一万円札の肖像画に採用予定の、いま注目される歴史的な人物である。孫の敬三も大蔵大臣などを経験し、戦前・終戦後の経済界をけん引した。この渋沢家と村井清、村井弦斎、早川孝太郎などの郷土ゆかりの人とは、さまざまな交流があった。企画展担当の岩瀬彰利主幹学芸員による解説で、交流の一部を紹介する。

◆渋沢家
 渋沢栄一は、1840(天保11)年2月に武蔵国榛沢郡安部領血洗島村(現埼玉県深谷市血洗島)で生まれました。幼名は栄一郎、雅号は青淵といいました。
 渋沢一族は、血洗島の開拓者で、一族の祖先がこの地に土着したのは戦国時代末期の天正年間と言われています。のちに分家し、一族は数々の家に分かれました。各家の呼び方は、家の位置関係に由来し「中の家」を中心に、「遠西の家」「前の家」「東の家」などと呼び、さらに「東の家」の分家があり、これら各家をもって一族としています。
 栄一が生まれたのは「中の家」で、父は市郎右衛門、母はエイ。家は代々農業を営んでおり、苗字帯刀を許され、養蚕と藍玉という藍の葉から作られる染料の製造販売、雑貨屋、質屋業などを兼ねていました。特に藍玉の年商は1万両を超えるほどで、富豪といえました。
 1858(安政5)年、栄一は従妹の千代と結婚し、長男篤二、長女歌子、次女琴子を授かりました。妻の千代が亡くなると栄一は兼子と再婚しています。
 のちに渋沢家は、篤二が廃嫡になって家を継がず、孫の敬三が栄一の直接の後継者となりました。
岩瀬彰利(豊橋市図書館主幹学芸員)
(続きは紙面でお楽しみください)

 豊橋市中央図書館は6月20日まで、図書館資料展「渋沢家と郷土豊橋の人びと」を開催している。渋沢栄一は、大蔵官僚を経て第一国立銀行の頭取に就任した近代経済社会の基礎を築いた実業家で、TVドラマや新一万円札の肖像画に採用予定の、いま注目される歴史的な人物である。孫の敬三も大蔵大臣などを経験し、戦前・終戦後の経済界をけん引した。この渋沢家と村井清、村井弦斎、早川孝太郎などの郷土ゆかりの人とは、さまざまな交流があった。企画展担当の岩瀬彰利主幹学芸員による解説で、交流の一部を紹介する。

◆渋沢家
 渋沢栄一は、1840(天保11)年2月に武蔵国榛沢郡安部領血洗島村(現埼玉県深谷市血洗島)で生まれました。幼名は栄一郎、雅号は青淵といいました。
 渋沢一族は、血洗島の開拓者で、一族の祖先がこの地に土着したのは戦国時代末期の天正年間と言われています。のちに分家し、一族は数々の家に分かれました。各家の呼び方は、家の位置関係に由来し「中の家」を中心に、「遠西の家」「前の家」「東の家」などと呼び、さらに「東の家」の分家があり、これら各家をもって一族としています。
 栄一が生まれたのは「中の家」で、父は市郎右衛門、母はエイ。家は代々農業を営んでおり、苗字帯刀を許され、養蚕と藍玉という藍の葉から作られる染料の製造販売、雑貨屋、質屋業などを兼ねていました。特に藍玉の年商は1万両を超えるほどで、富豪といえました。
 1858(安政5)年、栄一は従妹の千代と結婚し、長男篤二、長女歌子、次女琴子を授かりました。妻の千代が亡くなると栄一は兼子と再婚しています。
 のちに渋沢家は、篤二が廃嫡になって家を継がず、孫の敬三が栄一の直接の後継者となりました。
岩瀬彰利(豊橋市図書館主幹学芸員)
(続きは紙面でお楽しみください)

現地に残る渋沢栄一の生家(中の家)=埼玉県深谷市で
現地に残る渋沢栄一の生家(中の家)=埼玉県深谷市で

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