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吉田城の石垣 大坂の陣前に積まれたか

吉田城と壁谷さん(提供)
吉田城と壁谷さん(提供)
「慶長十六年三月」の刻印が見つかった石垣。大名の刻印もある
「慶長十六年三月」の刻印が見つかった石垣。大名の刻印もある

「三河の石研究所」壁谷さんの研究

 吉田城の石垣が1610~11年に積まれた可能性が高いとする研究成果を「三河の石研究所」所長の壁谷善吉さん(75)=蒲郡市西浦町=が発表した。現在の定説は20年頃に積まれたとなっている。「14年の大坂冬の陣の前に積まれた可能性が高い。吉田城は徳川方にとり重要な城の一つだった」と話す。
 吉田城や名古屋城の石垣と採石地の研究をしている壁谷さんによると、名古屋城は徳川家康の命により10年に石垣が積まれたことが分かっている。担当したのは加藤清正をはじめ前田利常、池田輝政、福島正則、黒田長政、浅野幸長、山内忠義ら西国、北国大名の20家。うち名古屋城の石垣工事にめどがついた後、10~11年に20家のうち加藤、福島、池田、山内ら約10家が吉田城の石垣を積んだとしている。
 説を裏付けるのが、壁谷さんが吉田城の石垣で発見した刻印。「慶長十六年三月」(1611年3月)と刻まれていた。吉田城鉄櫓(くろがねやぐら)下の川沿いにあり、近くには加藤、池田らの刻印も見つかっている。
 さらに家康の駿府時代を中心にした動向を記した慶長日記には「西国大名は岡崎の山々で難儀して石を取り置き候」(慶長15年11月27日付の記録)とあり、この時期に吉田城の石垣が積まれたことの裏付けになると推測する。このほか、名古屋城の石垣と同じ刻印が吉田城で50以上あることも同時期に積まれた証拠の一つという。
 石垣が積まれた時の吉田城主は竹谷松平家の家清。家康に重要視されていたことも、石垣の普請につながったとみる。
 壁谷さんは「大坂冬の陣の前は、万が一にそなえ東海道にある城を家康が強化した時期。東三河を代表する吉田城は家康が重視した城の一つだった」と分析。「三河の皆さんと力を合わせて、今後も歴史と文化の解明に尽力する」と意気込む。
 壁谷さんは石垣と採石地の研究を25年以上続けている。蒲郡市の西浦半島や幡豆に名古屋城の主要な石切り場があったことを発見。名古屋城や吉田城の石垣を採石した大名の調査もしている。
【竹下貴信】

「三河の石研究所」壁谷さんの研究

 吉田城の石垣が1610~11年に積まれた可能性が高いとする研究成果を「三河の石研究所」所長の壁谷善吉さん(75)=蒲郡市西浦町=が発表した。現在の定説は20年頃に積まれたとなっている。「14年の大坂冬の陣の前に積まれた可能性が高い。吉田城は徳川方にとり重要な城の一つだった」と話す。
 吉田城や名古屋城の石垣と採石地の研究をしている壁谷さんによると、名古屋城は徳川家康の命により10年に石垣が積まれたことが分かっている。担当したのは加藤清正をはじめ前田利常、池田輝政、福島正則、黒田長政、浅野幸長、山内忠義ら西国、北国大名の20家。うち名古屋城の石垣工事にめどがついた後、10~11年に20家のうち加藤、福島、池田、山内ら約10家が吉田城の石垣を積んだとしている。
 説を裏付けるのが、壁谷さんが吉田城の石垣で発見した刻印。「慶長十六年三月」(1611年3月)と刻まれていた。吉田城鉄櫓(くろがねやぐら)下の川沿いにあり、近くには加藤、池田らの刻印も見つかっている。
 さらに家康の駿府時代を中心にした動向を記した慶長日記には「西国大名は岡崎の山々で難儀して石を取り置き候」(慶長15年11月27日付の記録)とあり、この時期に吉田城の石垣が積まれたことの裏付けになると推測する。このほか、名古屋城の石垣と同じ刻印が吉田城で50以上あることも同時期に積まれた証拠の一つという。
 石垣が積まれた時の吉田城主は竹谷松平家の家清。家康に重要視されていたことも、石垣の普請につながったとみる。
 壁谷さんは「大坂冬の陣の前は、万が一にそなえ東海道にある城を家康が強化した時期。東三河を代表する吉田城は家康が重視した城の一つだった」と分析。「三河の皆さんと力を合わせて、今後も歴史と文化の解明に尽力する」と意気込む。
 壁谷さんは石垣と採石地の研究を25年以上続けている。蒲郡市の西浦半島や幡豆に名古屋城の主要な石切り場があったことを発見。名古屋城や吉田城の石垣を採石した大名の調査もしている。
【竹下貴信】

吉田城と壁谷さん(提供)
吉田城と壁谷さん(提供)
「慶長十六年三月」の刻印が見つかった石垣。大名の刻印もある
「慶長十六年三月」の刻印が見つかった石垣。大名の刻印もある

カテゴリー:社会・経済

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