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山吹きウズラ復活へ

内田さんのもとで働いてきた社員からウズラ肉について指導を仰ぐ市川社長㊧と塩野谷社長㊥=豊橋市高塚町で
内田さんのもとで働いてきた社員からウズラ肉について指導を仰ぐ市川社長㊧と塩野谷社長㊥=豊橋市高塚町で
ウズラ肉を屋台で提供し豊橋の新名物として発信していた内田さん㊧(隣に映る柴田さん提供)
ウズラ肉を屋台で提供し豊橋の新名物として発信していた内田さん㊧(隣に映る柴田さん提供)

 ミシュランのレストランガイドに星付きで載る有名店に使われていた希少な国産ウズラ肉「三河山吹きウズラ」が復活する。1年前の22日、豊橋市の生産者・内田貴士さんが42歳の若さで亡くなり、一度は途絶えたウズラ肉の生産。地元のウズラ農家と精肉店が引き継ぎ、地域が誇る食材へとさらなる高みを目指す。
 
 かつて内田さんが営んでいた豊橋市高塚町の生産農場に立つアギーズ(豊川市)の塩野谷和昭社長(44)と鳥市精肉店(豊橋市)の市川勝丸社長(37)。ウズラ肉の生産は採卵の会社アギーズが、販売は鳥市と、それぞれのノウハウを生かすため、昨年11月に業務提携を結んだ。ジビエにジャンル分けされるウズラ肉は冬の食材として使うことが多く、今季も高級レストランから注文が相次ぐ。
 国産はほぼ流通していないウズラ肉の専業経営をしていた内田さんは、もともと父親から採卵の会社を引き継いだが、えさ代の高騰や安価な輸入卵の増加で経営は厳しく、ウズラ肉に活路を見出し、2016(平成28)年10月から全面的に肉生産に切り替えた。
 輸入品の倍の60日まで育てて旨(うま)味を凝縮、到着までに1週間はかかる欧州産に比べ、処理して翌日に届ける鮮度の良さを売りに、ウズラ肉をクーラーボックスに詰め、一軒ずつ飲食店を訪ね歩いた。次第に品質の高いハイブランドのウズラ肉として、高級店から注文が入るようになった。東三河の農業者集団「豊橋百儂人」としても、各地のイベントで精力的に飼養数日本一の同市の「ウズラ」をPRしてきた。
 ようやく事業が軌道に乗りかけた昨年1月22日朝、内田さんはインフルエンザをこじらせ肺炎を発症、出勤途中の車内で亡くなっているのが見つかった。
 妻が引き継いだ会社も昨年6月に肉の出荷を終了、競売にかけられた。「今やらないと、とてつもなく後悔すると思った。貴士君が0を1にしたウズラ肉の文化を守らないといけない」と塩野谷社長が落札。背景には、ウズラの世話と肉の処理、販路開拓と、ウズラ肉市場の開拓者として苦労していた内田さんを「同業者としてもう少し手助けできたのでは」との自責の念がある。
 「貴重なウズラ肉を残したい」。肉を仕入れていた市川社長は県内唯一のブランド合鴨「あいち鴨」を生産し、高級食材として全国へ売り出す中で、内田さんと情報を交換しながら共に全国の有名店へと出荷を拡大してきた。実は、内田さんとの最後はケンカ別れだった市川さん。本音でぶつかり合った同志として思いは一層強い。
 営業担当柴田博隆さん(36)の手には内田さんが血のにじむ思いで積み重ねてきた約1000軒の取引先リストが握られている。「内田さんはウズラに対して、いい意味で頑固だった。東三河といったら山吹うずらとあいち鴨と言われるほど、農畜産物に強い地域と全国的に認識されたときがゴール」と力を込める。
 農場は4月までに改築し、かつての月出荷数1万2000羽へ、来冬までに戻す計画。10年以上内田さんのもとで働き、肉の処理技術や各店の情報を伝承する女性社員(59)らと共に3人は一歩づつ歩みを進める。
 名前は内田さんの思いをくみつつ、さらなる品質向上を目指し「三河山吹うずら」に若干変えた。命日の22日、3人は内田さんの墓に再出発を報告する。「今は彼の苦労をかみしめながら足跡をたどっている最中。彼と同じ位置に立てたとき、今度は目標を報告にくる」(塩野谷社長)。
(飯塚雪)

 ミシュランのレストランガイドに星付きで載る有名店に使われていた希少な国産ウズラ肉「三河山吹きウズラ」が復活する。1年前の22日、豊橋市の生産者・内田貴士さんが42歳の若さで亡くなり、一度は途絶えたウズラ肉の生産。地元のウズラ農家と精肉店が引き継ぎ、地域が誇る食材へとさらなる高みを目指す。
 
 かつて内田さんが営んでいた豊橋市高塚町の生産農場に立つアギーズ(豊川市)の塩野谷和昭社長(44)と鳥市精肉店(豊橋市)の市川勝丸社長(37)。ウズラ肉の生産は採卵の会社アギーズが、販売は鳥市と、それぞれのノウハウを生かすため、昨年11月に業務提携を結んだ。ジビエにジャンル分けされるウズラ肉は冬の食材として使うことが多く、今季も高級レストランから注文が相次ぐ。
 国産はほぼ流通していないウズラ肉の専業経営をしていた内田さんは、もともと父親から採卵の会社を引き継いだが、えさ代の高騰や安価な輸入卵の増加で経営は厳しく、ウズラ肉に活路を見出し、2016(平成28)年10月から全面的に肉生産に切り替えた。
 輸入品の倍の60日まで育てて旨(うま)味を凝縮、到着までに1週間はかかる欧州産に比べ、処理して翌日に届ける鮮度の良さを売りに、ウズラ肉をクーラーボックスに詰め、一軒ずつ飲食店を訪ね歩いた。次第に品質の高いハイブランドのウズラ肉として、高級店から注文が入るようになった。東三河の農業者集団「豊橋百儂人」としても、各地のイベントで精力的に飼養数日本一の同市の「ウズラ」をPRしてきた。
 ようやく事業が軌道に乗りかけた昨年1月22日朝、内田さんはインフルエンザをこじらせ肺炎を発症、出勤途中の車内で亡くなっているのが見つかった。
 妻が引き継いだ会社も昨年6月に肉の出荷を終了、競売にかけられた。「今やらないと、とてつもなく後悔すると思った。貴士君が0を1にしたウズラ肉の文化を守らないといけない」と塩野谷社長が落札。背景には、ウズラの世話と肉の処理、販路開拓と、ウズラ肉市場の開拓者として苦労していた内田さんを「同業者としてもう少し手助けできたのでは」との自責の念がある。
 「貴重なウズラ肉を残したい」。肉を仕入れていた市川社長は県内唯一のブランド合鴨「あいち鴨」を生産し、高級食材として全国へ売り出す中で、内田さんと情報を交換しながら共に全国の有名店へと出荷を拡大してきた。実は、内田さんとの最後はケンカ別れだった市川さん。本音でぶつかり合った同志として思いは一層強い。
 営業担当柴田博隆さん(36)の手には内田さんが血のにじむ思いで積み重ねてきた約1000軒の取引先リストが握られている。「内田さんはウズラに対して、いい意味で頑固だった。東三河といったら山吹うずらとあいち鴨と言われるほど、農畜産物に強い地域と全国的に認識されたときがゴール」と力を込める。
 農場は4月までに改築し、かつての月出荷数1万2000羽へ、来冬までに戻す計画。10年以上内田さんのもとで働き、肉の処理技術や各店の情報を伝承する女性社員(59)らと共に3人は一歩づつ歩みを進める。
 名前は内田さんの思いをくみつつ、さらなる品質向上を目指し「三河山吹うずら」に若干変えた。命日の22日、3人は内田さんの墓に再出発を報告する。「今は彼の苦労をかみしめながら足跡をたどっている最中。彼と同じ位置に立てたとき、今度は目標を報告にくる」(塩野谷社長)。
(飯塚雪)

内田さんのもとで働いてきた社員からウズラ肉について指導を仰ぐ市川社長㊧と塩野谷社長㊥=豊橋市高塚町で
内田さんのもとで働いてきた社員からウズラ肉について指導を仰ぐ市川社長㊧と塩野谷社長㊥=豊橋市高塚町で
ウズラ肉を屋台で提供し豊橋の新名物として発信していた内田さん㊧(隣に映る柴田さん提供)
ウズラ肉を屋台で提供し豊橋の新名物として発信していた内田さん㊧(隣に映る柴田さん提供)

カテゴリー:社会・経済

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