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豊川海軍工廠の体験談を聴く会

工員養成所で習った手振り信号を披露する森田さん=豊川市平和交流館で
工員養成所で習った手振り信号を披露する森田さん=豊川市平和交流館で

 豊川市穂ノ原の豊川海軍工廠(しょう)平和公園平和交流館で16日、市教育委員会による豊川海軍工廠の体験談を聴く会が開かれた。元工員養成所の見習工員、森田和夫さん(88)が、市民ら50人に戦時中の暮らしや空襲の記憶を語った。
 新城市出身の森田さんは14歳で見習工員となり、現在の豊川工業高校付近にあった養成所に入った。1945(昭和20)年の3月末から約半年間、毎日のように記していた日記帳を基に、市教委生涯学習課の平松弘孝さんとの掛け合いで回想した。
 将来の工廠の幹部候補を育てる名目で設けられた養成所は、ノミやシラミだらけで、入浴は週2回という不衛生な環境。上下関係が厳しく、一人が注意されると連帯責任として全員が棒で尻をたたかれるなどの体罰を受けたことを振り返った。そんな中、両親が面会に訪れたことを明かし「母親や父親と会えるのが一番うれしかった。差し入れは寄宿舎の仲間たちにも分けた」と話した。
 5月19日に40人が死亡する空襲が起きると、その後もたびたび米軍機が飛来。6月20日の豊橋空襲では「上から下へ赤い炎が落ちると、今度は下から上へ炎が上がった」と目に焼き付いた光景を振り返った。街中で米軍による降伏を求めるチラシを拾ったり、豊川稲荷周辺で家屋を撤去して延焼を防ぐ「建物疎開」を見たことも紹介。大空襲で2500人以上が犠牲となった8月7日には、腐乱した仲間の遺体を運んだことを語った。
 戦後は、工廠の生存者らでなる「八七会」の一員として供養塔の管理に尽力。「かけがえのない仲間とのつながりや絆を得た」と話し、最後は同じ元見習工員の白井三郎さんが考案した詩吟「青春を 国にささげて 友は散る 慰霊の月日 過去のおもかげ」を吟じ、声を震わせた。
(由本裕貴)

 豊川市穂ノ原の豊川海軍工廠(しょう)平和公園平和交流館で16日、市教育委員会による豊川海軍工廠の体験談を聴く会が開かれた。元工員養成所の見習工員、森田和夫さん(88)が、市民ら50人に戦時中の暮らしや空襲の記憶を語った。
 新城市出身の森田さんは14歳で見習工員となり、現在の豊川工業高校付近にあった養成所に入った。1945(昭和20)年の3月末から約半年間、毎日のように記していた日記帳を基に、市教委生涯学習課の平松弘孝さんとの掛け合いで回想した。
 将来の工廠の幹部候補を育てる名目で設けられた養成所は、ノミやシラミだらけで、入浴は週2回という不衛生な環境。上下関係が厳しく、一人が注意されると連帯責任として全員が棒で尻をたたかれるなどの体罰を受けたことを振り返った。そんな中、両親が面会に訪れたことを明かし「母親や父親と会えるのが一番うれしかった。差し入れは寄宿舎の仲間たちにも分けた」と話した。
 5月19日に40人が死亡する空襲が起きると、その後もたびたび米軍機が飛来。6月20日の豊橋空襲では「上から下へ赤い炎が落ちると、今度は下から上へ炎が上がった」と目に焼き付いた光景を振り返った。街中で米軍による降伏を求めるチラシを拾ったり、豊川稲荷周辺で家屋を撤去して延焼を防ぐ「建物疎開」を見たことも紹介。大空襲で2500人以上が犠牲となった8月7日には、腐乱した仲間の遺体を運んだことを語った。
 戦後は、工廠の生存者らでなる「八七会」の一員として供養塔の管理に尽力。「かけがえのない仲間とのつながりや絆を得た」と話し、最後は同じ元見習工員の白井三郎さんが考案した詩吟「青春を 国にささげて 友は散る 慰霊の月日 過去のおもかげ」を吟じ、声を震わせた。
(由本裕貴)

工員養成所で習った手振り信号を披露する森田さん=豊川市平和交流館で
工員養成所で習った手振り信号を披露する森田さん=豊川市平和交流館で

カテゴリー:社会・経済

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