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戦争語る旧海軍下士官の森田さん

戦争体験を語る森田さん=豊橋市東脇の公園で14日
戦争体験を語る森田さん=豊橋市東脇の公園で14日
戦友と記念撮影した上海時代の森田さん(後列右端)
戦友と記念撮影した上海時代の森田さん(後列右端)
戦友会で配られた部隊の配置など
戦友会で配られた部隊の配置など

 旧海軍の下士官として南方を転戦した森田宮次さん(98)=豊橋市東脇=は「戦友も、いなくなってしまった」と静かに語った。連日の米軍機による猛爆撃、同僚の戦死、飢えに苦しむ陸軍兵士の姿を見てきた。「もう戦争はやっちゃいかん」。敗戦から75年の夏、話を聞いた。
 耳は少し遠いが、話しぶりはかくしゃくとしている。1922(大正11年)生まれ。地元の小学校を出て、名古屋の鉄工所で働いた。徴兵検査を受け、召集令状が届いたのは1944年の初め。「なんとなく海が好きだった」という理由で、海軍を希望した。広島・呉海兵団で教育を受け、上海陸戦隊に配属された。
 海軍の新兵いじめは苛烈だ。「精神注入棒」と呼んだすりこぎのような木の棒で、古参兵が新兵の尻を猛烈にたたく。1人が失敗しても連帯責任で殴られる。1発食らうと、1週間は痛くてたまらない。
 4カ月後、一度内地に戻り、今度は南方に派遣されることになった。広大なニューギニア島の最西端で現在のインドネシア西パプア州にあるコカスだった。便乗した3隻の輸送船のうち1隻が潜水艦に撃沈され、一度は大分・佐伯に戻ったが、再び出発し現地に着いた。途中で経由したパラオ島の守備隊には「死ににいくのか」と声をかけられた。ただ、パラオも軍中央からは放棄され、米軍の爆撃にさらされていた。
 コカスから湾の奥にあるバボ飛行場へ。ここの警備が任務だった。2000㍍級の滑走路があったが、すでに航空隊は撤収しており、同年5月の大爆撃で地上施設が壊滅した。多数の幹部が戦死したという。滑走路には大量のドラム缶が遺棄されていた。それでも、定期的に米軍の双発機が爆撃に来た。
 米軍機は低高度で飛んでくる。急に爆撃が始まる。森田さんは司令部に出頭する際に空襲に遭い、防空壕(ごう)に飛び込んで九死に一生を得たこともある。普段、寝起きするのも壕の中だった。同僚を何人も失った。「来るのは敵の飛行機ばかり。味方のは見たことがない」と森田さんは言う。
 ニューギニア戦線では補給の途絶えた陸軍部隊が飢餓に苦しんだことで知られる。しかし、島西部に展開した海軍部隊は膨大な糧食を確保しており、森田さんらが飢えることはなかった。また、地元の海で鍛えた水泳の実力は部隊一だったため、海に潜って魚をとってきた。一度に23㌔の遠泳をしたこともある。沖縄出身の兵隊とともに現地の漁撈(ぎょろう)隊として活躍し、おいしそうな魚がとれたら、本隊へ送った。上官の従兵でもあったため「食べるには困らなかった」と森田さんは振り返る。
 ただ、陸軍部隊を目にしたことがあった。やせ衰えた姿を見て「気の毒に」と思ったことがあるという。
 終戦の年、バボからさらに南のアラフラ海にあるケイ諸島にまた転進することになった。空襲を避けるため、夜間の行軍で山を越えた。海を渡ったはずだが記憶がはっきしりない。現地にいたのは80人ほど。飛行機は当然、無い。何のための転進だったのかは今でも分からない。
 そして終戦。軍上層部から連絡が来た。「ヤレヤレ、死なずに済む」と思ったという。オーストラリア軍に抑留され、船の甲板掃除などの雑役をやらされながら過ごした。ひどい扱いを受けた兵隊もいた。復員したのは47年になってからだった。
 戦後、農業と漁業兼業で生活を支えた。自転車で新城や浜松まで行ってアサリなどをとった。服務期間が1カ月足りず、軍人恩給がもらえなかったためだ。生活は苦しかった。
 今はひ孫もいる。東脇では最高齢者になった。戦争の無かった75年を振り返り「もう、あんなみじめな思いはしたくない。戦争はやっちゃいかん」と、力を込めた。
【山田一晶】

 旧海軍の下士官として南方を転戦した森田宮次さん(98)=豊橋市東脇=は「戦友も、いなくなってしまった」と静かに語った。連日の米軍機による猛爆撃、同僚の戦死、飢えに苦しむ陸軍兵士の姿を見てきた。「もう戦争はやっちゃいかん」。敗戦から75年の夏、話を聞いた。
 耳は少し遠いが、話しぶりはかくしゃくとしている。1922(大正11年)生まれ。地元の小学校を出て、名古屋の鉄工所で働いた。徴兵検査を受け、召集令状が届いたのは1944年の初め。「なんとなく海が好きだった」という理由で、海軍を希望した。広島・呉海兵団で教育を受け、上海陸戦隊に配属された。
 海軍の新兵いじめは苛烈だ。「精神注入棒」と呼んだすりこぎのような木の棒で、古参兵が新兵の尻を猛烈にたたく。1人が失敗しても連帯責任で殴られる。1発食らうと、1週間は痛くてたまらない。
 4カ月後、一度内地に戻り、今度は南方に派遣されることになった。広大なニューギニア島の最西端で現在のインドネシア西パプア州にあるコカスだった。便乗した3隻の輸送船のうち1隻が潜水艦に撃沈され、一度は大分・佐伯に戻ったが、再び出発し現地に着いた。途中で経由したパラオ島の守備隊には「死ににいくのか」と声をかけられた。ただ、パラオも軍中央からは放棄され、米軍の爆撃にさらされていた。
 コカスから湾の奥にあるバボ飛行場へ。ここの警備が任務だった。2000㍍級の滑走路があったが、すでに航空隊は撤収しており、同年5月の大爆撃で地上施設が壊滅した。多数の幹部が戦死したという。滑走路には大量のドラム缶が遺棄されていた。それでも、定期的に米軍の双発機が爆撃に来た。
 米軍機は低高度で飛んでくる。急に爆撃が始まる。森田さんは司令部に出頭する際に空襲に遭い、防空壕(ごう)に飛び込んで九死に一生を得たこともある。普段、寝起きするのも壕の中だった。同僚を何人も失った。「来るのは敵の飛行機ばかり。味方のは見たことがない」と森田さんは言う。
 ニューギニア戦線では補給の途絶えた陸軍部隊が飢餓に苦しんだことで知られる。しかし、島西部に展開した海軍部隊は膨大な糧食を確保しており、森田さんらが飢えることはなかった。また、地元の海で鍛えた水泳の実力は部隊一だったため、海に潜って魚をとってきた。一度に23㌔の遠泳をしたこともある。沖縄出身の兵隊とともに現地の漁撈(ぎょろう)隊として活躍し、おいしそうな魚がとれたら、本隊へ送った。上官の従兵でもあったため「食べるには困らなかった」と森田さんは振り返る。
 ただ、陸軍部隊を目にしたことがあった。やせ衰えた姿を見て「気の毒に」と思ったことがあるという。
 終戦の年、バボからさらに南のアラフラ海にあるケイ諸島にまた転進することになった。空襲を避けるため、夜間の行軍で山を越えた。海を渡ったはずだが記憶がはっきしりない。現地にいたのは80人ほど。飛行機は当然、無い。何のための転進だったのかは今でも分からない。
 そして終戦。軍上層部から連絡が来た。「ヤレヤレ、死なずに済む」と思ったという。オーストラリア軍に抑留され、船の甲板掃除などの雑役をやらされながら過ごした。ひどい扱いを受けた兵隊もいた。復員したのは47年になってからだった。
 戦後、農業と漁業兼業で生活を支えた。自転車で新城や浜松まで行ってアサリなどをとった。服務期間が1カ月足りず、軍人恩給がもらえなかったためだ。生活は苦しかった。
 今はひ孫もいる。東脇では最高齢者になった。戦争の無かった75年を振り返り「もう、あんなみじめな思いはしたくない。戦争はやっちゃいかん」と、力を込めた。
【山田一晶】

戦争体験を語る森田さん=豊橋市東脇の公園で14日
戦争体験を語る森田さん=豊橋市東脇の公園で14日
戦友と記念撮影した上海時代の森田さん(後列右端)
戦友と記念撮影した上海時代の森田さん(後列右端)
戦友会で配られた部隊の配置など
戦友会で配られた部隊の配置など

カテゴリー:社会・経済

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