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78年ぶり日章旗が遺族へ

78年ぶりに帰ってきた日章旗を持つみなさん。前列右から浅井市長、式子さん、侑子さん、田中会長=豊橋市役所で
78年ぶりに帰ってきた日章旗を持つみなさん。前列右から浅井市長、式子さん、侑子さん、田中会長=豊橋市役所で
1940年頃の加藤家の記念写真。赤ちゃんは侑子さんと式子さん(提供)
1940年頃の加藤家の記念写真。赤ちゃんは侑子さんと式子さん(提供)

 先の大戦でフィリピンで戦没した豊橋市出身の海軍兵が身につけていた日章旗が3日、78年ぶりに遺族の元へ届けられた。市役所で返還式があった。
 持ち主は1945年2月26日に32歳で戦死した加藤博夫さん。海軍上等主計兵だった。44年7月、召集されて呉海兵団入団。翌週に奈良県丹波市町(現天理市)の三重海軍航空隊の分遣隊に配属される。そして同年11月にフィリピン・マニラの第31特別根拠地隊に転属となる。陸軍の方針に背いてマニラで徹底抗戦を決めた海軍部隊は激しい市街戦を繰り返し、多くが戦死、10万人超の市民が犠牲になった。加藤さんがどういう状況で亡くなったのかは分かっていない。
 遺族は長女加藤侑子さん(82)と次女白井式子さん(81)。2人とも父の記憶はまったくなく、写真でその姿を見るだけだった。「海軍だから船が沈んで死んだと思っていた」と侑子さん。
 しかし、加藤さんの日章旗を持っていた米コネチカット州在住の米国人サリー・シャベスさんが「返還したい」と同国NPO法人「OBONソサエティ」に遺族探しを依頼。日章旗にあった小さな氏名から持ち主が加藤さんと判明、日本遺族会が靖国神社に照会したところ豊橋市出身と分かった。
 そこで昨夏から市遺族会連合会などが戦没者の情報を集めた冊子「平和の礎(いしじ)」をもとに、侑子さんらを探し当てた。複数で手分けし、戦前の住所で聞き込みをするなど、3カ月かかったという。
 浅井由崇市長から侑子さんと式子さんに日章旗が手渡された。侑子さんは涙ぐんだ。580人分の寄せ書きが載っているという。市遺族会連合会の田中剛会長は「多くの遺族のもとには何も帰ってきていない。幸運だった」と述べた。式子さんは「日章旗の署名は遺品にある父の字だと思った。父が帰ってきたようだ」と話した。
【山田一晶】

 先の大戦でフィリピンで戦没した豊橋市出身の海軍兵が身につけていた日章旗が3日、78年ぶりに遺族の元へ届けられた。市役所で返還式があった。
 持ち主は1945年2月26日に32歳で戦死した加藤博夫さん。海軍上等主計兵だった。44年7月、召集されて呉海兵団入団。翌週に奈良県丹波市町(現天理市)の三重海軍航空隊の分遣隊に配属される。そして同年11月にフィリピン・マニラの第31特別根拠地隊に転属となる。陸軍の方針に背いてマニラで徹底抗戦を決めた海軍部隊は激しい市街戦を繰り返し、多くが戦死、10万人超の市民が犠牲になった。加藤さんがどういう状況で亡くなったのかは分かっていない。
 遺族は長女加藤侑子さん(82)と次女白井式子さん(81)。2人とも父の記憶はまったくなく、写真でその姿を見るだけだった。「海軍だから船が沈んで死んだと思っていた」と侑子さん。
 しかし、加藤さんの日章旗を持っていた米コネチカット州在住の米国人サリー・シャベスさんが「返還したい」と同国NPO法人「OBONソサエティ」に遺族探しを依頼。日章旗にあった小さな氏名から持ち主が加藤さんと判明、日本遺族会が靖国神社に照会したところ豊橋市出身と分かった。
 そこで昨夏から市遺族会連合会などが戦没者の情報を集めた冊子「平和の礎(いしじ)」をもとに、侑子さんらを探し当てた。複数で手分けし、戦前の住所で聞き込みをするなど、3カ月かかったという。
 浅井由崇市長から侑子さんと式子さんに日章旗が手渡された。侑子さんは涙ぐんだ。580人分の寄せ書きが載っているという。市遺族会連合会の田中剛会長は「多くの遺族のもとには何も帰ってきていない。幸運だった」と述べた。式子さんは「日章旗の署名は遺品にある父の字だと思った。父が帰ってきたようだ」と話した。
【山田一晶】

78年ぶりに帰ってきた日章旗を持つみなさん。前列右から浅井市長、式子さん、侑子さん、田中会長=豊橋市役所で
78年ぶりに帰ってきた日章旗を持つみなさん。前列右から浅井市長、式子さん、侑子さん、田中会長=豊橋市役所で
1940年頃の加藤家の記念写真。赤ちゃんは侑子さんと式子さん(提供)
1940年頃の加藤家の記念写真。赤ちゃんは侑子さんと式子さん(提供)

カテゴリー:社会・経済

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